|
Place of scenic and historic interest
|

上の美濃路の写真右側の民家の裏庭にあります。個人の民家で留守のため見ることが出来ませんでした。裏庭の背後は墓地になっていました。
1560年織田信長は桶狭間の合戦で今川義元を打ち破り、義元の首級と義元愛用の刀、宗三左文字と脇差を掲げ、熱田から清洲まで美濃路を凱旋した。
信長はこの地に、敵将今川義元の首を晒し、その菩提を弔うため義元塚を築き、衆僧に千部経を読ませ、大卒塔婆を立てたといわれている。石碑は正覚寺三譽上人が建てた供養塔といわれている。
|
その昔、萱津神社辺りの森を『あわでの杜』とよばれていたという。ここは日本武尊と宮簀姫の悲恋の舞台で、日本武尊が東征のおりここで休憩した。
姫がこの杜に駆けつけた時にはすでに旅立つたあと。姫は大変悲しんだ。その姿を見ていた人々は誰かれとなく、この杜を『不遇の杜(阿波手杜)と呼ぶようになったと伝えられている。
|
わが国の漬物の歴史は古く、この萱津神社が漬物発祥の地といわれている。傷を負った日本武尊にこの地の農民が塩漬けにした野菜をさしだしたところ、『藪に神の物』(やぶにこうのもの)と言って食したという伝承がある。それが香の物『つけもの』の始まりと伝えられている。毎年8月21日に全国の漬物業者が集まり香の物祭りが行われる。
|
この森の農業の神様かやぬひめを祀ったのが萱津神社です。熱田神宮の元旦祭、春祭、秋祭に漬物が特殊神撰として奉献されてきた。
|
日本武尊が息吹山で負傷した帰途、尾張熱田にいた妻の宮?姫に会えないまま伊勢に旅立った。そのそびしさを榊に託し植えたところ、それが神社の森となつた。尾張の国司がこの森の枝のつながった榊を、后のいなかった陽成天皇に献上したところ、皇后を迎えることができ、皇子を授かったことから評判が広がり紫式部の『かきたへて 人も梢のなげきとて はては阿波での 森となりけり』をはじめ多くの和歌に詠まれています。
|
日東山と号し曹洞宗の寺。寺院の縁起では、天平勝宝年中(749-56)萱津神社の社僧であったといわれる。元和元年(1615)峰慶呑和尚が中興の祖、現在の曹洞宗に改宗。
|
別名夜泣き地蔵ともいう。元は街道沿いの一里塚の側にあった。
|
その昔、奥州から都の父(橋本中将)を尋ねて若い夫婦(恩雄ヤスタカ)と藤姫が萱津の宿に辿り着いたが、長旅の疲れで藤姫が病にに罹り十六歳の若さで世を去る。
二十一歳の恩雄は薬師如来を形見に持っていた藤姫を此処に葬り、小庵を建て回向した。わが子の顔を見たことのない父は、この萱津宿にきて恩雄が薬師如来を祀って藤姫の冥福を祈っていることを知った。
この仏は母が京から持って行った守本尊であることがわかり、死んだ藤姫がわが子であつたことを知った。
正法寺の東厳和尚はこの事を知り、『反魂香』を焚いて、藤姫の美しい姿を父に見せたと伝えられている。
藤姫の墓は『反魂香塚』と呼ばれている。
|
旧鎌倉街道は新しく設けられたものでなく、大化の改新(645)により五畿七道の制定で設けられた。所謂古代東海道の道筋にそっていると思われます。
美濃路から墨俣-黒田(現在の木曽川町辺り)-下津-萱津-熱多-鳴海-沓掛と日本書紀にも出ています。
萱津は甚目寺の出郷である。その出郷が鎌倉時代に下津から萱津に移り交通の接点となり駅馬(宿)となつた。
|
長生山と号し、日蓮宗の寺。創建弘長元年(1261)v日妙上人開基。本尊は法華三宝。境内は甚目寺町内寺院で最大。庫裏は清洲城主福島正則が城内の長屋を一棟寄進したという。山門は鎌倉末期か室町時代のものといわれている。
|
創建は弘安5年(1282)横笛山と号す。当時尾張萱津道場といい72僧寮が建ち並んだという。享保8年(1723)萱津屋武兵衛が寄進の門、室町時代と推定されている。この寺は木下藤吉郎が八歳の頃光明寺に門弟として預けられるが、なかなか門弟としての修行ができないため、父方に送り返された逸話があります。
|
創建元応元年(1319)実際にはこれより古いといわれている。織田敏定(信長の曽祖父)が改修。山門は福島正則の寄進でし四脚門。日蓮宗。
|
宝永元年(1704)に建立されたという。村人は『虫歯地蔵』といい、地蔵に炒り豆を供え『この豆の芽が出るまで虫歯が痛まぬように』とたのむと、一代虫歯が痛まないといわれている。現在この辺りは中小の工場が点在しているが、昔は田圃のあぜ道の際に立っていたと思われます。現在は工場の横にひっそりと立っています。
|