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Place of scenic and historic interest
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なごやの散歩道大須界隈
Osu Temple Neighborhood Course
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赤門、明王さんとして知られる。明王殿の本尊は婦人病にご利益があるという。赤門通りの地名はこの寺の赤い門に由来する。曹洞宗の寺で慶長15年(1610)清州超えで現在地に移転した。
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この辺りは、修験道の寺であつた清寿院の後園であつた。明治12年市内で最初の公園として市民に開放された。広さ2000平方米で、公園の入口付近の柳の井戸は、名古屋の三名水の一つといわれた。那古野山古墳は前方後円墳と推定されているが、現在22m、高さ3mの円墳状のみが残っている。
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尾張名古屋の三名水は亀屋の清水と蒲焼町の風呂屋の井戸とここ清寿院の井戸といわれている。清寿院は修験道当山派・富士山観音寺ともいったが、1667年藩命により清寿院と改めた。明治の廃仏毀釈により廃寺となった。当時、境内では芝居、見世物小屋なども出て大いに賑わったと伝えられる。柳下水は清寿院の中門前にあり、将軍家上洛のときには、その飲用水として用いられたともいわれる。清寿院は下の富士浅間神社の前にあった。
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明応4年(1495)駿河の浅間神社から勧請。供水に使った井戸水は柳下水として有名だつた。明治を向かえるまでは富士山観音寺清寿院という寺の鎮守であつたが、廃仏毀釈でこの神社だけ残った。
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正式名は稲園山正覚院長福寺。『七歳の亡児の菩提にちなみ七堂伽藍を建立した』古事により七寺と称された。観音、勢至菩薩像、一切経は重要文化財に指定されている。
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2階の黒漆喰の壁と堅格子の窓が昔のたたずまいを感じさせます。全体はア-ケ-ドでかこまれていて判りません。
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『東別院)『ご坊さん』と親しみを込めて呼ばれている真宗大谷派名古屋別院(浄土真宗)である。当時建立の気運は慶長年間に始まり、元禄4年、二代尾張徳川藩主光友より名古屋城下最南端の古渡城址地に1万坪の土地の寄進をうけて、1702年に建立された。東海道方面に対する城下防衛の砦としての役割も負わされていたと言われています。その後手ぜまになり、1805年より18年の歳月を費やして壮大な本堂が再建された。明治にはいり明治7年物産博覧会の会場となり、同年から2年半の間愛知県庁の仮庁舎が置かれた。戦災で諸堂が焼失したが、1962年鉄筋コンクリ-トの本堂が再建され今も以前の威容を誇っている。
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織田信秀は今川氏豊から奪った那古野城を子の信長に譲り、その南約4Kmの当地に1534年古渡城を築き移った。東西140m南北100mの平城で、二重に堀が巡らされていたと言う。その後信秀は末森城を築いて移ったため、古渡城は廃城になつた。
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東本願寺名古屋別院の境内東北隅のこの辺りは、天保年間に増築された別院新御殿の北庭だつた。池あり、築山ありの起伏に富んだ回遊式の名園として知られていたが、戦災で荒廃、その後ようやく往時の面影をしのべるまでに修復し公園として公開された。
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この辺りは旧称新屋敷といい、藩士の新刀試しに供した場所であつた。1821年冬、ここで名古屋最初の人体解剖(腑分け)が行われた。当日の参観者は吉雄俊蔵始め60余名。石黒斎庵の執刀により東西の医学書を対照して行い、洋書の正確なことを知った。ちなみに、1771年杉田玄白らが江戸小塚原で最初の腑分けを行ってより50年後のことである。
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この辺りは、江戸時代初期には千本松原と呼ばれね尾張藩の刑場があったところである。江戸幕府によるキリシタン禁制の強化につれ、尾張藩領でもキリシタンに対する取締りは厳しさを増していった。1664年この刑場で隠れキリシタン200余人が斬罪に処せられた。二代尾張藩主光友は刑場を土器野(かわらけの)現在の西春日井郡新川町に移し、その跡地に処刑者慰霊のための堂宇を建てたのが清涼庵栄国寺である。寺内には切支丹跡博物館がある。踏み絵、マリア観音、切支丹札などが展示されている。
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別名千人塚ともいう。
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この羅塚は横井也有68歳の1769年冬、門人であった石川文礁がその恩義に報いるため建立した塚で青かずらを植えて也有の徳風を後世に伝えようとした。この寺で1781年内藤東甫が也有を始め九老を招き詩歌連俳の会尚歯会を開いた。
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二代藩主光友の腫れ物の平癒祈願のため、名古屋の豪商茶屋長以が刻んだ七面女神像を祀る。七面宮の由来は光友自ら自筆の額を与えたことによる。山号は七面山。日蓮宗の寺だが、七面宮、七面様、七面さんなどと呼ばれている。
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創建は不詳。織田信長が桶狭間の戦勝のお礼に松千本を植えたといい、以後千本松日置八幡宮とも呼ばれた。
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明応年間(1492-1501)本願寺8世蓮如上人の6男蓮淳が、伊勢国長島に門徒の協力で創建した願証寺が始まりである。伊勢、尾張の浄土真宗の中心道場として発展したが1574年織田信長に攻められ廃寺となった。その後清州に再興され、さらに名古屋城築城にともない城下の南寺町の現在地に移った。インド風の近代的本堂は1972年に建てられた。
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後の名古屋大学医学部の始まりの場所です。
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曹洞宗の寺だが、本堂の西隣に建つ三宝殿が有名。三宝荒神は三方荒神とも書き、かまどの神、土の神として恐れられた。織田信長がわが子の無事成長を祈願した古事にちなむ守鶏絵馬の奉納祈願は現在でも盛んである。
撮影機材・Sony cyber shotDC-71
撮影サイズ・1200×1600高画質画像
撮影場所・名古屋市中区
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