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Place of scenic and historic interest
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山田の庄・三郷の里から御用水跡かいわい
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通称児子宮(ちこのみや)といい、末社の児子社は古来より虫封じの神として信仰が深い。
代々尾張藩主も、幼少時に虫封じをさずかつたといわれる。
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名古屋城の鬼門除けとして、城内から大聖不動明王が奉遷されている。境内に、室町時代の様式を持つ市指定文化財六地蔵石仏があります。上下二段に三体ずつ浮き彫りにした小さな石仏です。
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尾張藩時代に用水路として切り開かれたが、埋め立てられ、昭和48年、夫婦橋から猿投橋までの約1.6Km、黒川岸の桜とともに、緑の散歩道として生まれ変わった。
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寛文3年(1661)夏、庄内川の水を名古屋城の内堀に引き入れる目的で掘削された用水路で、辻村用水ともいつた。その水路は志賀、田幡村の南を経て御深井御庭の東北隅から城内に入り、さらに幅下・堀川に達していた。明治9年(1876)この御用水に並行して黒川がきり開かれた。
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明治時代につくられたが昭和55年に復元。
石造。庄内川から黒川(堀川)へ用水を引くために設けられた樋門であり、矢田川の地下を通り、ここから黒川に流れ込みます。
3連の樋門に2つの石段があり、巻上機の上屋は木造で復元されています。
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かってこの地は黒川樋門が造られた時に池があり、ここより黒川用水、庄内用水、御用水、志賀用水上飯田用水に分水していたので、いつの頃からこの池は天然プ-ルと呼ばれるようになつた。
1977年(昭和52年)三階橋ポンプ所建設により姿を消すまで、多くの子供たちが水あそびや魚つりに興じていた。
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延喜式神名帳に山田郡羊神社、本国帳に従三位羊天神とあるのがこの神社で、棟札に慶長18年とある。
この付近の町名の辻町の語源はひつじ転じたものといわれる。
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文安元年(1444)創建。本尊薬師如来像は、空海42歳のときの作といわれ、辻薬師または厄除薬師と呼ばれている。
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式内六所明神と称号去れ、延喜式神名帳に尾張国山田郡式内従三位別小江天神と記されています。末社の八幡社は、安産の神と称され、世俗に、安井の里でできたわらを敷くと安産疑いなしと伝えられている。
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社伝によれば天正年間(1573-1592)に、安井将監・浅野長勝(ねねの養父)が安井城を築く際、鬼門の守護神として勧請したという。
この神社の西南に位置した安井城は、東西約160m・南北約150m規模で、当時としては、相当な館であったと伝えられている。
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天台宗の寺で天平17年(745)僧行基の創建といわれ、安食、山田両氏の菩提寺であった。
初め安食荘の荘官安食重頼の法号にちなんで常観寺といったが、鎌倉時代の武将山田重忠が再建したとき、今の寺号に改めた。
寺は昭和8年の矢田川改修に伴いこの地に移された。
行基作の木造十一面観世音菩薩立像は、平安時代の作とされ、名古屋市内で最も古いものの一つとされる。
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寛政4年(1792)御用水を分水し、当時の庄内川と矢田川に囲まれた成願寺、中切、福徳の三村(郷)を通る水路が開削された。三郷水路と言う名称の由来はこの三郷からといわれる。
この地に度々起こる水害のため、昭和5年から8年にかけて矢田川を付け替える工事が実施され、同時に三郷水路の矢田川伏越も行われた。
その後、田畑の減少により用水路としての役目を終え、排水路へと変わってきた。
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中切村村社で、改修前の矢田川と庄内川の間にあり、高い石垣境内は、水難から免れるためのもの。付近の民家も一段高い土地に建てられていた。
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神社は高台にあり、本殿はさらに石垣の上に作られています。
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神明社の近くにありますが、天神社も高台の上にあります。
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神明社同様境内は高い。遷宮棟札に寛永9年と記されています。
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聖徳太子自作と伝わる像を本尊とし、安食次郎重頼が建てたといわれる。重文紙本白描絵因果経一巻がある。
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