|
Place of scenic and historic interest
|
|
|
守山の旧街道と水屋めぐり
|
この元杁樋は明治43年木曽川から庄内川を経て用水を引くために改築された樋門で、ア-チ型、長さ30m、幅2m、高さ3mのものが2門並列で原型をとどめています。
名古屋市内に現存する唯一の人造石工法による土木技術上貴重な産業遺跡である。
この元杁の南、上の写真のように黒川沿いは桜並木になつています。
|
手前が黒川の取水口であるが、現在は閉じられています。試験通水のときだけ開かれます。水利権等の問題があって難しいようです。
|
この地域は庄内川と矢田川に囲まれた低湿地帯で、絶えず洪水に見舞われ、家屋敷が永く浸水することがあつた。
これに対する自衛策として、高台から離れた地域の有力な家では土を高く盛り、石垣を築き、食料等を貯蔵して生活できる避難用建物を設けた。
これを水屋と呼び、蔵式と住居がある。水屋には連絡用の舟も備えられていた。
現在は森になつていますが、中に蔵が建っています。
|
この街道は藩政時代の道で、現在の天神橋から瀬古商店街を北上し、瀬古小学校東側を勝川橋まで通っていた。
300年前にはすでに多治見、土岐を経て中山道に連絡しており、関東から中山道を通って名古屋へ出て関西方面に行く人や伊勢参り、善光寺参りの人達で賑わった。矢田、庄内の両川には橋がなく、刈橋や渡し舟で渡ることもあつたが、渡渉のことが多かつた。
明治になって橋ができ、また、新たに現在の国道19号線が開設されたことによりその役をゆずつている。
|
この近辺では多くの水屋があったようですが、時代の変化で現存するものが少なくなつています。
|
江戸時代の末期、元冶二年(1865)創業の東春酒造の蔵屋敷。現存実働の素晴らしい水屋建築です。
|
寛元年間(1243〜)道円の開基と伝えられる。
本尊は阿弥陀如来で、薬師如来、釈迦如来とともに木像3体が恵心僧都の作といわれる。延宝3年(1675)藩主光友の命で再建、明治24年濃尾地震で倒壊、翌年再建、昭和20年の空襲で焼失、観音堂と山門は残り現存しています。
|
山門横の馬頭観音像は、善光寺街道勝川橋南詰めの坂の上に設けられていたものを明治初年に移されたものです。
右側におもかる地蔵が並んでいます。
|
石山寺道の道標で、北面に「右石山寺道」、西面に「寛政七卯五月吉日」と読める。大正の頃、石山寺への道が拡幅されたのに伴い、少し北の位置からここへうつされている。
|
養老元年(717)創建の古い神社です。
山田次郎重忠奉納という菅原道真の画像一軸があったが、天保の頃には現北区の民家の保管となっており、明治8年交渉により民家と神社側が半年ごとに交互保管することになった。
矢田川に架かる天神橋の名称は天神像が往復することから命名されたといわれるが、残念ながらこの天神像は戦災で焼失した。
千種区に同じ名前の神社があります。
|
祭神は須佐之男之命。口伝によれば、鎌倉時代の創建と伝えられている。
境内に古川(神戸川)が流れて景観をつくつている。
|
本尊は地蔵菩薩、境内に青面金剛童子を本尊とする庚申堂があり、幸心の地名はこの堂の名によるといわれている。
|
道傍に南面した間口約2mの小祠で、左から馬頭観音、地蔵菩薩、聖観音2体の計4体が祀られ、地蔵菩薩の台石に明和8年(1771)の銘がある。
|
本尊は観世音菩薩。寛永14年(1637)松平清康の霊を弔うために守山城跡に建てられた。清康の位牌を安置している。
|
平山城。林の中に大規模な東西方向の堀が見られる。
築城年代、創建者ともに不詳。大永6年(1526)連歌師宗長が城を訪れ、連歌の会が盛大に催されたと伝えられる。
天文四年(1535)徳川家康の祖父松平清康が大軍を率いてこの地に布陣、尾張攻略を図ったが家臣に殺害された。いわゆる「守山崩れ」の舞台になったところである。
その後、織田信長の叔父信次、弟の信時が城主となり、桶狭間の戦後、廃城となったとされる。
|
祭神は菊理姫命。養老年間(717〜)の鎮座と伝えられ、本殿、拝殿は濃尾地震で倒壊し、翌明治25年改築された。
社殿が守山白山古墳上にあります。古墳の規模は長さ95m、高さ5mで、柄鏡形に近い形をしている。
埴輪を出土している。
|
初代藩主徳川義直は瀬戸の製陶を奨励し、製品の輸送にも利用された。曲折が多く道幅も一定しなかったので、明治18年以来改修し現在の道筋になつた。昭和の初、曲折を直し、ル-ト変更した。旧道のなごりがわずかに残っている。
|
明治39年、二城村、小幡村、大森村、高間村が合併して守山町となり、翌年役場を設けた。昭和29年守山市役所隣、さらに昭和38年守山区役所として引き継がれ、昭和46年までこの地にあった。
|