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Place of scenic and historic interest
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なごや散歩道名古屋城とその周辺
Nagoya Castle Neighborhood Course
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名古屋城は関ヶ原の合戦後江戸幕府を開いた徳川家康が、慶長14年(1609年)江戸幕府の要衝として、また大阪方への備えとして築かれた。清州から名古屋へ遷府を決定し、加藤清正、福島正則、前田利光等北国・西国の諸大名20名に普請を命じ、天守閣や諸櫓の作事は慶長17年(1612)にほぼ完成した代表的な平城です。その後明治維新を向かえるまで名古屋城は徳川御三家の筆頭尾張家の居城として栄えた。
築城を命じられた外様二十大名は手伝いとは名ばかり。工事費用はすべて大名が負担し、家康は口を出すが金はビタ一文出さない。指名された大名は莫大な量の資材を人夫ともども国元から運ばねばならず、一度指名されると相当な大藩でもやせ細るといわれた。家康の狙いは指名した大名の藩財政を窮乏させることにあり、名指しを受けた二十大名はいずれも以前豊臣方に通じていた外様大名ばかりであった。結局は負け組、理不尽なお手伝いと知りつつも家康の威光を恐れ、身の安泰のため従わざるをえなかった。手伝った普請大名二十家のうち明治維新までそのまま残ったのはわずか十二家という過酷さ。石垣の刻印は封建の世に翻弄された外様大名の怨念が込められている。
戦災で天守閣、本丸御殿はじめ建物のほとんどを焼失しました。戦後昭和34年10月に天守閣が再建され、金鯱は尾張名古屋のシンボルとして復活しました。
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明治43年に旧江戸城内の蓮池御門が移築されましたが、戦災で焼失したため、昭和34年に天守閣と共に再建された。
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古くは南二之門といわれ、門柱・冠木とも鉄板張りとし用材は木割りが太く堅固に造られています。袖塀は土塀で鉄砲狭間を開いて要害としての堅固さを示しています。重要文化財に指定されています。
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明治の初めに陸軍の兵営建築のために二之丸公園の多くが壊されてしまいました。名古屋市の逢左文庫所蔵の『御城御庭絵図』に基づいた発掘調査であらわれた北池、南池、茶席『霜傑』建物跡、暗梁の四遺構を中心に整備し、昭和53年4月に二之丸東庭園として開園された。
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二之丸茶亭は由緒ある二之丸庭園にふさわしい風格をもち、現代様式のなかに古典美を生かした建物でね素材も木曽の檜がもちいられね点茶のための座敷および水屋などが造られています。
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元和年間(1615-23)二之丸御殿の造営に伴って同御殿の北側に聖堂(金色玉振閣)を中心として設けられましたが、享保(1716-36)以後たびたび改修され枯山水回遊式庭園に改められた。
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天守閣の石塁の構築を命じられた加藤清正は巨石の運搬に際し、自ら音頭をとって木遣りを歌わせ民衆の老若を問わず引き綱をとって運んだと伝えられているが、この石塁の施行は黒田長政なので単なる逸話と思われます。
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城内の石垣のここかしこに多種多様の記号を刻んだ石があります。築城にあたり、石垣の構築を命じられた諸大名が、自分の運んだ石を他の大名と区別するために刻んだ『目印』です。
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辰巳櫓とも言われその規模、構造は西南隅櫓と同じです。この櫓は創建当時の姿を伝えるもので鬼瓦に葵の紋が見られます。
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天守閣の南、本丸のほぼ中央に建てられた大建築で、当初は初代尾張藩主徳川義直の住居と藩の政庁として使用されましたが、その後は将軍が上洛する際の宿館となりました。二条城の二之丸御殿と並んで書院造の双璧でしたが、惜しくも戦災で焼失しました。
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大天守閣と小天守閣は橋台という通路で接続された連結式天守で、橋台上には軒先に槍の穂先を並べた形の剣塀が築かれた。
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未申櫓ともいわれ、屋根二層・内部三階の櫓。西南両面には軍事用の『石落し』を張り出して屋根を付けています。濃尾地震で石垣と共に崩壊しましたが、宮内省によって修理復旧され、鬼瓦などに菊花紋が見られます。目を凝らすと西と南に石落とし用の張り出しがあり小屋根がついている。
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軒桁に30cm余りの槍の穂先を並べ忍返しとして使われたもので、名古屋城では天守閣と小天守閣とを連結する橋台の西面や不明門北面に見られます。
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戌亥櫓とも清州櫓ともいわれ、他の建物の古材を転用して建築されています。外部北面、西面に千鳥破風が作られています。
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藩祖義直が大阪の陣に出るに当たって、かやの実を食膳に供したと伝えられています。樹齢600年以上を経たとつたえられている天然記念物。
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乃木希典が名古屋鎮台に在任していた明治初期に建てられたといわれる。だれいうとなく『乃木倉庫』と呼ぶようになった。建物は煉瓦造平屋建で旧陸軍の弾薬庫であった。昭和20年5月14日の名古屋大空襲の際、天守閣、御殿等が焼失したが、本丸御殿の障壁画や天井絵類の大半を取り外してここに保管していたため被災を免れた。後に煉瓦の保全のため白亜塗りにしたる戦災を免れた障壁画等は現在国の重要文化財に指定されている。
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ここにある石は旧国宝名古屋城天守閣の基礎土台石です。天守閣再建のとき、ここえ移して再現したものです。
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西之丸、御深井丸など郭(くるわ)の接するところに防衛上から入り込んだ堀を設けている。これを鵜の首という。本丸を巡って鵜の首といわれる箇所は五ケ所残っている。
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名古屋城天守閣の石垣積みは上部で外側にそりだした『肩勾配』の技法が取り入れられている。これは加藤清正が担当して築いたので、とくに『清正流三日月石垣』といわれている。この技法は石垣を内面に湾曲させ石の重みと内側の土圧による力を分散させ、はらみを避けるためである。
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本丸御殿の大奥へ通ずる秘門であり、常に鍵が厳重に施され別名『あかずの門』といった。塀は『剣塀』になつている。空襲で天守閣などと共に焼失、昭和53年3月原形の通り再建された。
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この辺りは名古屋城の北側の沼沢地であったので、築城にあたり生松などを埋め込み築きあげたという。大筒蔵、平筒蔵など武具倉庫があった。
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慶長15年(1610)加藤清正が徳川家康に願い出て、大小の天守閣の石垣工事を施行した。清正は巨石を修羅に乗せて運ぶ時、石の上に乗り、気勢を上げたと伝えられ、世に『清正の石曳き』といわれている。
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埋門とは、城郭の石垣又は土塀の下をくぐる門をいう。埋門の跡は二の丸庭園の西北の位置にあり、城が危急の場合城主はここから脱出することが決められていた。この門をくぐれば垂直の石段があり、これを降り濠を渡って対岸の御深井丸の庭から土居下を通り大曽根、勝川、定光寺を経て木曽路に落ちて行く事が極秘の脱出路とされていた。
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この門は東鉄門といわれ、もとは二の丸の東二之門(外門)として枡形を形成していたが、昭和38年二の丸の一角に愛知県体育館が建設されるに当たり一時解体し保管していた。昭和47年ここ本丸東二之門跡へ移築した。
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二之丸御殿北御庭の北端の石垣の上に東西に長く伸びた練塀の遺構である。この練塀は南蛮たたきで固められた非常に堅固なものであり円形の鉄砲狭間が見られる。名古屋城の遺構としては大変珍しく貴重な文化財である。
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