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Place of scenic and historic interest
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なごや散歩道名古屋城とその周辺
Nagoya Castle Neighborhood Course
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維新の際、佐幕党の首謀者と目された三士は、明治元年1月20日朝命により斬首された。慶応4年(1868)d)正月20日二の丸御殿向屋敷の庭前で尾張徳川家の三重臣が斬首され、いわゆる青松葉事件が始まった。さらに25日までに尾張藩の重臣で同じやり方で十三人の首がはねられた。一説には勤皇派だった藩主の方針にそむき、幼君・元千代を擁して幕府方に投じょうとしたためといわれる。しかし郷土史家の長年の研究にもかかわらず謀判の確かな証拠が見つかっていない。真相はいまも謎のままである。
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島根県松江市山代町にあった団原古墳の石室で、本来は床石があつて手前に羨道を備えていた。古墳時代後期のもので出雲地方独特の横穴式石室です。
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この碑文は初代藩主徳川義直の直撰『軍書合鑑』の中にある一項の題目で、勤皇の精神について述べている。歴代の藩主はこれを藩訓として相伝し明治維新にあたっては親藩であったのに、勤皇帰一を表明したといわれている。
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江戸時代から本丸御殿南の庭にあった尾張藩秘蔵の銘椿で三月中旬から四月上旬に白八重大輪の花を咲かせる。原木は昭和20年空襲で焼失したかと思われたが、焼けた幹の下から再び新芽が伸び復活した。
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愛知県庁は1938年に建設されたる鉄筋コンクリ-ト造りの近代建築のうえに、城の櫓の頭部をのせた特長あるデザインである。外壁はタイル張りであるが、最上層は白壁仕上げとなっており、城の櫓を連想させる。最下層の腰周りには花崗岩を張って強固にみせている。タイルの使用は愛知県が全国有数の陶磁器どころであることをアピ-ルしたものである。
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名古屋市庁舎の外部設計は公募で選ばれたもので1931年に着工された。しかし、この年に満州事変が勃発したため、不測の事態に備えて高射砲が設置できるように屋上の一部を補強したといわれている。建物は鉄筋コンクリ-ト造り、外壁は茶褐色のタイル張りである。高さ53mの中央塔の上に和風の二重屋根をのせ最上部に四方にらみのシャチが置かれている。
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昭和8年(1933)建築。建設当時は旧愛知県信用組合連合会館として使用されたが、昭和32年愛知県が取得した。丸窓、バルコニ-の装飾などが表現派風のデザインとなつた建物です。
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愛知県庁大津町分室の横の建物。江戸時代からある薬種問屋『伊勢久』。螺旋状の柱や窓まわりの装飾に特徴がある。昭和5年(1930)の建築。
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愛知県庁の横の東海財務局の敷地の片隅にある。享保14年(1729)幕府儒官人見靖安の次子として生まれ尾張藩士であった叔父貞安の養子となつた。藩主宗睦に用いられ、世子の治休の待講となったが治休の死後、用人、勘定奉行等を歴任した。庄内川の治水や、明倫堂を興し細井平州と力を合わせて学則を定めるなど藩政に貢献し寛政9年(1797)に没した。
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旧名古屋控訴院地方裁判所・区裁判所庁舎。昭和59年5月国重要文化財に指定。大正11年建築。レンガの赤、花崗岩の白、銅板の緑、ストレ-トの黒---見事な色のハ-モニ-を奏でるネオバロック様式を基調とした建物である。
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芭蕉七部集の第一集『冬の日』がまとめられたのは尾張名古屋の宮町筋、現在のテレビ塔東北部の脚のあたり。それを記念して『薫風発祥の地』の碑が建てられた。このとき芭蕉は『こがらしの身は竹斎に似たる哉』と発句した。貞亨元年(1684)冬のこと。
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明治2年(1869)5月徳川慶勝公が戊辰の役(1868)で戦死した将兵二十五柱の霊を祀るため昭和区広路町川名山に創建した。初めは旗忠社と称したが明治8年招魂社と改め、更に明治8年官祭招魂社となつた。大正7年(1918)城北連兵場へ移り、昭和十年(1925)現在地に遷座し昭和14年愛知県護国神社と改められた。
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創建は延喜11年(911)。名古屋城築城後は城内の一角に鎮座することとなつたため城の鎮守神、城下名古屋の氏神とされた。明治9年現在地に移り明治32年に那古野(なごや)神社と改称しました。江戸時代には亀尾天王社あるいは天王社と呼ばれていた。当時天王祭が盛大に行われていた。この祭りは京都の八坂神社の祇園祭や津島神社の天王祭と同様、疫病と厄難除けの天王信仰の夏祭りであった。
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明倫堂は尾張九代藩主宗睦が藩士の子弟の教育のために建てた学問所(藩校)であった。明治4年廃藩置県で廃校になったが尾張全域に渡り政治的にも社会的にも大きな影響を与えた。
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元和元年藩祖義直が父家康の霊を祀るため名古屋城三の丸に創建。明治8年現在地に移された。本殿は愛知県の文化財に指定されている。
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福生院というより『袋町のお聖天』として知られる。お聖天は歓喜天のことで男女和合の福神様。
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桜天神の祭神は菅原道真公です。別名菅原神社とも言われます。
桜天神から北部にかけては、かつては万松寺境内(現在は大須に移転)で、この寺の鎮守として祀ったのがはじまりです。
名古屋城築城の際万松寺は移転し桜天神はこの地に残りました。桜の大樹があったため桜天神と呼ばれ、名古屋城築城の際清正公もしばしば桜の大樹の下で茶会をした。
この桜は万治3年の大火で焼失した。今の桜通りの名はこの桜天神に由来します。
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万治4年(1661)藩命により鐘楼を造り昼夜12時に鐘をついて時を城下に知らせた。この鐘は途中大火で焼失するが再建され明治6年まで続いた。
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三重県桑名。愛知県清州を経て寛永3年(1626)この地に移った真宗大谷派の寺院。境内には吉田紹和とその子吉田紹敬の茶道顕彰の碑がある。
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応永5年(1398)三谷源太夫が富士塚町(現・東区)に勧請。慶長15年(1610)名古屋城築城工事の普請場となったため現在地に移転した。
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朝日橋のたもとにこの碑があります。堀川は慶長15年(1610)城下と熱田の浜を結ぶ輸送路として福島正則によって開削されたと伝えられています。当時は名古屋城近くのこの地で堀留になっていた。
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