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Place of scenic and historic interest
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なごやの散歩道徳川家ゆかりのまち
探訪コ-ス
建中寺-徳川園-徳川美術館-逢左文庫-名古屋陶磁器会館−徳源寺−覚音寺-無量寿寺-神明社−楠公湊川神社-片山八幡社−関貞寺−了義院
尾張の伝統的な学術文化に触れ、城下町名古屋の往時をしのぶ散歩道である。
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尾張国・一宮曽根に河野覚音寺と称し万治年間に、尾張徳川家梅昌院が浄土真宗の信仰が厚く名古屋に寺跡を移し、三河国本証より高僧釈守謙を招き当地に堂宇を建立した。現在の堂宇は明治45年総檜造りで再建された。
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文化3年(1816)尾張徳川家、もと武蔵国大久保村(現在の東京都新宿区)の尾張藩戸山屋敷地内に創建した浄土宗の寺院で精林庵といった。安政3年(1856)七代藩主徳川宗春の菩提を弔うため、もと尾張藩御下屋敷地内北東の現在地に移された。万延元年(1860)今の寺号に改められた。建中寺の末寺でようやく謹慎の解けた徳川宗春を弔うため建てられたもの。
宗春は元文4年(1749)に時の将軍吉宗に真っ向から反旗をひるがえし謹慎を命じられる。現在の東区代官町から葵1丁目にかけてあった尾張藩の下屋敷に蟄居している。
尾張徳川家の菩提寺建中寺へ外出許可が下りたのは、なんと謹慎二十二年後の宝暦11年(1761)66歳の時という。子にも恵まれず寂しい晩年を送った。1764年69歳で亡くなり建中寺に葬られたが、墓には謹慎の網が張られた。
網が解かれたのが70年後、生前の謹慎期間を含めると実に百年後のことであつた。名君か、愚君か判断材料のひとつとして自らの政治姿勢を著した『温地政要』が逢左文庫に残されている。
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天照大神を祀る社である。創建不詳。寛永5年(1628)再建され、山口町一帯の総氏神として崇敬が厚い。昔は山口神社とも赤塚神明社ともいい湯立神事、茅輪くぐり神事が行われていた。
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神明神社の西側、国道19号線に面している方が湊川神社。神戸市の湊川神社は明治元年に尊皇攘夷の思想と合致して戦死の地に神社が建立された。その楠公の霊威を勧請したのが当地の湊川神社である。
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社伝によると尾張国山田郡片山卿から現在地に奉祀した。戦国時代は荒廃し熱田神宮に預けられた。尾張二代藩主光友の信仰が厚く、以来毎年藩主の代参が行われた。
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芭蕉50回忌寛保3年(1743)十月に五条坊木児が建立したもので、碑面に『有とあるたとへにも似ず三日の月』と『笈日記』の句形が記してある。昭和24年10月戦災で破損した原碑を原形に復し別に新碑が建てられた。
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撮影機材・Sony cyber shot DSC-P71
撮影サイズ・1200×1600高画質画像
撮影場所・名古屋市東区
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