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Place of scenic and historic interest
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那古野から円頓寺かいわい
Nakono and Endoji Neighborhood Course
探訪コ-ス
五条橋-円頓寺商店街-伊藤邸-浅間神社-四間道-子安地蔵-屋根神様-金毘羅神社-円頓寺-慶栄寺-専修寺-円頓寺劇場-円頓寺本町商店街-多賀宮-崇徳寺-菊水寺-法蔵寺-地蔵院-馬頭観音-トヨタ自動織機工場跡
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五条橋も、もともとは清州城の横にあった橋の名で、清州越しの際にこの地に移転してきた。実際には清州の橋から一部橋材を移築したようです。現在の橋は1938年にコンクリ-ト製に架け替えられました。昭和初期のもので十分歴史を感じさせます。橋の儀宝珠には慶長7年任寅六月吉日の銘があります。
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堀川は名古屋城築城の頃、城下町の発展を計るため、福島正則が美濃衆の手伝いを得て、一部元の川を整備、開削したという。以後ね産業面でも物資の輸送に重要な役目を果たしてきた。明治までは、朝日橋あたりで採れたハエは佃煮として一級品であったとのこと。
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江戸時代中頃よりの町屋造りで、清州越十人衆の一人の住居。現在も住居として使用されている。川伊藤と呼ばれた豪商でこの一帯には伊藤姓が多いため川伊藤といわれている。伊藤家は御用達商人で、米穀問屋を営んでいた。邸宅は江戸時代中期頃(元禄時代)から3期に渡って建てられた商家建築の代表的なものです。4等る土蔵は塗籠工法で造られている。この町屋は堀川端の筋から四間道筋まである大変広大な敷地です。この建物は愛知県文化財に指定されています。
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木花開那媛命を主祭神とする古社です。創建は不詳。『尾張誌』によると正保4年(1647)この地に遷座したとある。境内には300年以上の樹齢を誇るケヤキがある。
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四間道は元禄13年(1700)円頓寺(えんどうじ)付近から出火し1600軒が焼失したことから、尾張藩が防火対策として堀川端の問屋筋の裏を拡張し、道幅を4間にしたところから四間道と呼ばれるようになった。40年の長い年月を費やして完成した。道路の東側はすべて蔵造りにした。現在は伊藤家の土蔵などが四間道を背にわずかに残るのみである。堀川の水運を利用して活躍した名古屋商人の繁栄の跡と、近世名古屋の城下町の面影を今に伝えています。
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細井路地のつきあたりにあります。毎月24日に例祭が行われています。30cm程の石の地蔵が祀られている。『宝永七年円城童子』(1710)の刻名がある。明治28年付近の井戸をさらった時に発見されたという。
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この屋根神様は、津島神社、秋葉神社、熱田神宮を祭神としています。屋根の上に小さな社を祀るという形態は名古屋独特のものです。これは疫病や火災などの恐怖から身を守るために、庶民の祈りを込めて創られたもの。
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小さな神社てすがこの神社は大国主命を主際神としています。名古屋城築城当時から三の丸にあった重臣大道邸に祀られていましたがね1859年(安政6年)にこの地に移されています。毎年10月10日に大祭が行われ賑わいます。
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この寺は中村公園にあった妙行寺と同じく本堂は、名古屋城築城の際の余材を拝領して建てられたといわれています。1654年(承応3年)の創建で、当初は普敬院と称していたが、後に円頓寺と改められた。本堂脇の堂には、子供の守護神にと藩祖義直の側室により寄進された鬼子母神像が安置されている。こちらも名古屋城天守閣の余材で刻まれたとされており、毎月18日に公開されている。
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阿原山と号し真宗大谷派。太子堂は1804年(文化元年)奈良元興寺五重塔の古材を使い、住職義諦が建立したといわれています。聖徳太子を祀るところからその名がある。
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明暦3年(1657)当地に建立。当初は信行院と称したが、宝暦4年(1754)専修寺愛知別院と改めた。荘厳な偉容を誇っていた本堂は戦災で焼失したが、山門、鐘楼は創建当時のものを今に残している。
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円頓寺界隈が盛り場として賑わっていた頃の寄席や芝居の劇場はすべて無くなり、この映画館は戦後建てられたものです。今はポルノ映画館になっていました。
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この宮は伊邪那岐命と伊邪那美命を祀り、延命と縁結びの神様です。かつて豊臣秀吉が母の大政所の病気平癒を祈願したといわれている。滋賀県の多賀大社の分社にあたりますが、いつ分社され創建されたか不明である。
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浄土宗知恩院の末寺。山号は万松山。慶応3年浅野萬蔵が建立した。
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菊井町の由来になつた寺です。臨済宗。江戸時代の創建とつたえられている。昔この辺りにきれいな水が湧く泉があり『菊水の井』『菊の井』と呼ばれて親しまれていたという。室町、戦国時代この寺の北、西区役所の東辺りに押切城があったという。
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鴫塚の標石は法蔵寺の当時の住職が建てたものでこれは再建碑です。源碑は戦災で焼失した。
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貞亨元年(1684)芭蕉がこの寺で詠んだ『刈跡や早稲かたかたの鴫の声』の句を刻した翁墳である。現存のものは再建で安政3年に建てられたもの。
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