所沢飛行場物語
開設 2006.05.01

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 2011.3.16.




※ 陸軍特別大演習


 

大正元年(1912)11月15〜19日の4日間、関東地方で陸軍特別大演習が実施されました。

この年の特別明治天皇の死の直後に行われました。参加師団は「侵入軍」すなわち「北軍」として高田の第13師団と宇都宮の第14師団その他で、「国防軍」すなわち「南軍」として近衛師団と第一師団その他でした。戦いの想定は「北軍」が東京占領をめざし、「南軍」がこれを防衛するというもので。両軍合計10万人の軍隊が参加しました。演習は関東地方全域でしたが、川越・所沢が中心部の「会戦地」となり、北は松山付近、南は立川・多摩川右岸地区に及ぶ陸軍特別大演習が挙行されました。

所沢飛行場から飛行機ブレリオ、ファルマン機と飛行船バルセルヴァルが作戦に初参加しました。

はじめは軍部内では航空術の進歩がまだ伴わないとの理由で反対がありましたが、井上幾太郎大将が全責任を負うことで承認され偵察飛行が行われ、敵の縦隊区分、兵力,位置等が手に取る様に明瞭になる為に、軍司令部は敵情に何等苦心することなく戦闘命令を作為することが出来、航空機の効果の偉大なるのに驚き、航空機の活用なくして今後の戦争はできないと再認識しました。これにより飛行機及び繋留気球が大正3年第一次世界大戦の青島攻撃に参加しています。

徳川大尉はブレリオ単葉機、会式3号機には第1期交通術修業員航空機操縦将校木村鈴四郎砲兵中尉が操縦し、両機に偵察将校小沢寅吉・杉山元・末松茂治各歩兵大尉、浅田礼三歩兵大尉1名ずつ同乗し上空から大演習を偵察しました。この時、各機は数回の離着陸をくりかえしながら平均延べ百数十キロ、二時間弱ずつ滞空記録をマークしています。15日には木村中尉機が入間川河原仮着陸場に着陸し偵察報告演習を実施。17日には木村中尉機(小沢大尉同乗)が谷保仮着陸地から所沢へ帰航中、発動機が停止し、東村山野口に不時着。機体は大破しましたが乗員は無事でした。

この演習に際し、所沢の町は皇族をはじめ、要人、将校らの多くの軍人が町や松井村の家に宿泊したりし、町の人々まで巻き込んで行われた大演習は、町にとっては一大行事でした。

大演習の実施がまじかになるといろいろと準備が始まりました。まず、道路の修理、陸軍軍馬400頭ほど入れる馬屋の設置、歓迎の意味や夜間演習も予想され、松井村では主要道路に灯籠を設置、所沢町では街灯の設置、各戸で軒先に提灯を付けました。金山町だけでも一個十五銭の提灯を200個新調しています。明治天皇の死後直後であり、日の丸を掲げるかが議論されています。

衛生面でも清掃に関する細目が伝えられています。下水溝、泥溜内、便所、井戸付近などの掃除を詳細に規定しています。大掃除が徹底して行われ、巡査と役場の宮本書記、区長が見分にまわり、この時は樹木の枝切り迄指示しています。また、県の検査官が各戸毎に実地見分をしています。

住民にとって一番の重要問題は演習期間中の兵隊の接待と宿泊でした。事前に宿泊可能数を調査、各戸の畳数を調査し、宿泊者数を割り当てています。民家では風呂釜や夜具、火鉢,膳腕を新調したり町民にとっては一大事でした。

この様な準備にもかかわらず、所沢町では14,15,16日には宿泊者は南軍が優勢で北軍を追って北上したので、大部隊は入間川付近に宿泊し所沢には少部隊や馬丁が多く宿泊しています。しかし19日の大観兵式と大宴会を控えて18日には多くの部隊が宿泊しています。松井村(総戸数460戸)と下新井地区(宿舎登録戸数44戸)には歩兵第六六連隊を初めとして550人以上が宿泊しました。15日から19日までで将校32人、兵卒640人、馬匹75頭が宿泊、下新井地区では登録された家には宿泊できずさらに22戸を増やし66戸に宿泊しています。

所沢町への宿泊者の全体数は不明ですが、町の旅籠屋は観戦人、観兵式拝観人で満員で一般民家への宿泊者の斡旋で大忙しでした。町の要人宅には皇族をはじめ将校が宿泊しています。



伏見宮貞愛親王殿下

17日には下仲町(寿町)の井筒屋:秋田正太郎 宅に伏見宮貞愛親王殿下が宿泊しています。

民家への宿泊には代金が支払われています。一泊あたりの料金は陸軍から指示がきています。将官(大将、中将,少将)は一円四十銭、準士官以上(大佐、中佐、少佐、大尉、中尉,少尉、特務曹長)一円四銭、下士(曹長、軍曹、伍長、判任、給仕小使)七十四銭、馬丁三十七銭でした。

大演習には大元帥である天皇も参加し指揮をとりました。

この演習では川越に本営が設置され、大正天皇は期間中は埼玉県立川越中学校に宿泊しています。

所沢でも明治16年に明治天皇が飯能河原での近衛兵の演習があり行幸され、元町の斎藤家に行き帰り2泊しています。現在も宿泊された部屋は天皇行在所として県内では唯一残されています。

大演習中近隣の町村民が最も気をつかい苦労したのが天皇の行幸でした。

天皇は川越に宿泊していたので、所沢は通過駅で、14日には通過の奉迎があり、午後3時ごろ天皇の乗った列車は通過、五両編成の三両目に天皇が乗っており、「一同皆黙礼ヲ為し」、列車は徐行していきました。

17日、午前7時に関係者は集合、近隣からの奉迎者で沿道は雑踏し、巡査が厳重警戒するなか午前9時ごろ天皇は所沢駅に到着し、侍従長、宮内大臣、大山巌大将をはじめ数人の大将を従え、馬で飛行場に向かいました。




大正天皇行幸賜餐場之図


町の有力者
斎藤與惣次氏が招待される。
大正天皇行幸賜餐会への招待状


大正天皇行幸賜餐会場

大正天皇は午前9時、気象観測所屋上から演習を統監されました。午後2時30分頃川越本営に帰り、帰りにも奉送しました。19日の大観兵式は雨のために中止になりましたが、近隣に宿泊した兵隊や参観者は集合、しかし大宴会だけが行われ、天皇は午前中に宴会に出席、午後にはお帰りになりました。翌日の20日の還幸の奉送者は午前8時に羽織袴姿で所沢駅に集合、待つこと2時間、午前10時15分に今度は閑院宮(かんいんのみや)も同乗し列車は所沢駅を通過しました。

この様にして15日から19日までの大演習は終わりました。

尚、町の費用は約5〜600円ほど、大宴会の費用は築地西洋軒から4000人分の料理代、仮席、小屋代をまで含め20,000円ほどでした。(以上:北田斧吉日記参照)

後に行幸を記念し所沢神明社に記念碑が建造されました。大正4年には天皇行幸から御幸町、元幸町、寿町、有楽町らと町名も変わりました。大演習期間中、所沢は多くの見物人で賑わいました。飛行機せんべい等のお菓子、模型飛行機らの玩具が店頭に並び、特に飛行機の絵葉書が大人気で売れていきました。

 

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