2010.4,72011.7.16~2011.10.22.

江戸時代の所沢 

歴史上に初めて所澤宿の名が現れるのは鎌倉時代の嘉元三年(1305)です。

平長家という人物がおとはち丸という人物に「久米郷所澤宿」の一部を譲った、という内容の古文書が残されています。 
「小杉本淡路古文書」(市史上・425頁)


市の誕生

江戸幕府が政治の中心になると、旧鎌倉街道を東西に交差し江戸に向かう道(江戸道)が幹線道路となり、集落も次第に江戸道近辺へと移っていき、
江戸と秩父を結ぶ往還道の宿継ぎ場として栄えていきました。

江戸城の建設が始まると、青梅や飯能あたりで製造した石灰(いしばい)を輸送する必要ができ、現在の中心市街地の銀座通りから坂稲荷〜所沢駅〜北秋津と延び、久留米〜田無〜中野〜内藤新宿を通って江戸に運ぶ青梅街道と続き、江戸道は所沢と江戸を結ぶ重要な道になり、交通の要衝(ようしょう)として発展してきました。

上宿・上町(旧本町)上仲宿・上仲町(旧元幸町)下仲宿・下仲町(寿町)下宿・下町(旧御幸町)の町名から見ても、西から東へと次第に町並みが延びていった事がわかります。

江戸時代の学者「斎藤鶴磯」がその著書「武蔵野話」の中で「此寺(新光寺をさす)の東南の道を本宿といふ。元野老澤村の民家は此所に在しと。
今は江戸道の方へ皆居住する事になりぬ。」と記しています。

中世の所沢は鎌倉街道が南北に縦断し、中世末期には本宿・(現金山町)・河原町(現宮本町)あたりの街道沿いに集落が形成されたと言われています。江戸時代になると、江戸城の建設が始まり、青梅、飯能あたりで製造された石灰を輸送するための道が整備され、所沢から田無・中野を通り江戸へ抜ける道が整備されていきました(青梅街道)。

鎌倉街道を東西に交差する中心市街地の銀座通りは「江戸道」とよばれ、集落も次第に江戸道近辺へと移っていき、江戸と秩父を結ぶ往還道の宿継ぎ場として栄えていきました。寛永10年(1633)には江戸城のご用炭が秩父から運ばれるようになると、その荷馬が所沢を通るようになり、幕府が定めた人足と駅馬を用意して、荷を次ぎの宿まで送る馬継ぎ場でもありました。それとともに、所沢周辺の経済的な中心地となっていき、近在からの農産物の集散地となり、江戸道沿いに市が立ち、近在の農民たちも産物を売ったり、日用品を購入する場所として繁栄していきました。

市が成立したの時期は明らかではありませんが、寛永16年(1639)11月3日、所沢の市の開催にあたり、商人が市祭をおこない、市神様に市の繁栄を祈った祭文が残っています。

成立当時の所沢では三のつく日、3日、13日、23日に開催される「三斎市」からはじまり、のちに、八のつく日にも開催され「六斎市」と拡大し「三八の市」と呼ばれています。

市を主催した商人達は有力商人へと成長し、富を蓄え、天保期の米の飢饉からはじまった打ち壊しの対象にも所沢の商人の名前が挙げられるほど、財力のある商人が誕江戸末期の所沢には穀商、肥料商、織物商、荒物、糸、油、薬種、鉄物、魚、瀬戸物、青物、煙草を扱う多くの商人が、江戸の往還道(江戸道)沿いで商いをしていました。

特に、多摩郡村山地方から所沢地方伝わったと言われる絣木綿は織物買継商が市を通じて取引され、明治期には所沢飛白として全国に知られ、所沢が発展する大きな原動力になりました。
旧町(中心市街地)にあつた建物の中には慶応2年(1866)名栗村を起点として起こった一揆(武州世直し一揆)で穀屋、油屋、搗米屋(つきまい)などの商店15件から17軒が打ち壊しにあっています。
この2年後、明治維新を迎え所沢の町も新たな時代へと向かっていきます。


 所澤宿略図
  国立公文書館所蔵

 『秩父巡拝図絵』

文政3年(1820)に秩父へ巡拝に向かった竹村立義が道中の体験をもとに書いた地誌。

著者は所澤の「秩父屋」という旅籠に宿泊し、所澤の様子を【凡そ四丁あまり家居左右に建つらね、
蔵つくりもおさおさあれど、瓦もて葺くるは絶えてなし】と記している。

道の中央には井戸、二階建ての民家や蔵らも描かれています。




『武藏野話』

野老澤村家並

蔵野地誌として著名な『武蔵野話』は文化12年(1815)江戸の儒学者・漢詩文作者の斎藤鶴磯が所澤中宿(寿町)に
20年余りも住んでいた間に、所沢をはじめ各地を実地調査して著したものです。
当時遺された古文書・金石文・出土品や館跡・社寺などを記録してあります。

挿画は鈴木南嶺

北を手前に描かれています。

図中には新光寺のクワンヲン(観音)堂「ジツザウイン(実蔵院」
「カマクラミチ」などの文字が見られ、画面左上の大通りには坂稲荷、高札場、大井戸も描かれています。



  『里正日誌』

蔵敷村(東大和市)名主の内野氏が記した日記。
所沢の旅籠屋と茶屋の記載は安政3年(1856)の「所沢村組合村々地頭姓名其外書上帳」を書き写した部分に掲載されています。




ちなみにこの時の所澤村の家数は282軒、人口は男831人、女761人とあり、
馬が11疋と記されています。 
江戸日本橋迄九里、三八の市で米雑穀、木綿縞、苗木類、小麦粉、薩摩芋、里芋、栗、柿、前菜青物種物、
藁縄踏、
草鞋を主に扱っていたことが書かれています。


 
『新編武藏風土記稿』

文化7年(1810)〜天保元年(1830)までの林大学頭が建議し江戸幕府が編さんした地誌
所沢村の部分は【古は野老澤と書けり、回国雑記にもしか記る」せり。
このところ今江戸より秩父への往還の場次なり(中略)
家数265.月ごとに三・八の市たてり。駅の往還の長さ十三丁】とあります。




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