200011
10000
ファルマン通り
開設 June.30.2001

2001.1.30  2008.6.28.〜2010.9.30




 下のマップより直接リンクされている場所があります。


ダイエー前広場からスクランブル交差点を過ぎ坂稲荷に至る商店街をファルマン商店街と言います。
平成2年に東一番商店街から改名されました。明治44年4月1日に日本初の飛行場として所沢飛行場が出来ました。
この時に徳川大尉が操縦するアンリ・ファルマン機が初飛行に成功しました。
平成2年にこの飛行機からファルマンと名前を命名し(東一番商店街から改名されました)
ファルマン交差点を地元の人達は通称「根岸の交差点」と呼んでいます。

現在の金山町交差点からこの交差点の坂上までを旧町と呼び江戸時代から商家が立ち並び賑わっていました。

銀座商店街からファルマン通り、プロぺ通りから駅を横切る道は江戸幕府が開かれた時に出来た道で江戸道(後に東京道)と言われ所沢街道から内藤新宿に続いています。

この周辺を「植の宿」と言われ、江戸末期から栄え、坂3軒と云われた茶屋坂口屋、松葉屋、武蔵屋をはじめ旅館、料理屋が軒を連ね文人もいれば、
江戸時代の将棋の名人(福泉籐吉)
、関東一の侠客、小金井小次郎の一の子分勘七親分、所沢まつりでお馴染みの市無形文化財「重松流祭り囃子」の始祖、
古谷重松等が旭町(現在は東町)に住んでいました。
明治9年5月10日には所沢警察署の前身、大和田警察署所沢分署として坂上に設置され、明治21年9月19日大字所沢上の台45番地(元町11)に庁舎が新築されるまで、
第二大和田出張所(明治9年12月19日)・所沢警察署(明治15年3月5日)として設置されていました。
明治9年、大和田警察署所沢分署が設置されるまで庚申堂がありましたが墓陵(川端霊園)前に移されました。
川端霊園には古谷重松の墓、坂稲荷の社殿装飾絵(市の文化財)を描いた江戸後期時代の南画家三上文筌の墓、将棋の名人・籐吉の墓があります。
藤吉の墓は将棋盤の上に駒の乗った珍しい墓です。

子供の頃の思い出

私はこの交差点にある江戸末から商いをしている商家に生まれました。
両親共に町場の商家に生まれ育ちで
生粋の所沢っ子です。

私が誕生した頃(昭和12年・1937年)は入間郡所沢町でした。
両親共所沢の商家の生まれでした。

曽祖父ー天保元年(1830)誕生
祖父ー文久元年(1861) 誕生
父親・明治25年 誕生
母親・明治35年 誕生


生家は江戸末時代からの煙草屋と雑貨屋で化粧品、薬、小間物を販売していました。
現在も甥が5代目として引き継いでいます。

専売公社になる以前からの煙草屋で曽祖父が刻み煙草を売っていました。
曽祖父は煙草の入った引出しがついた箱を天秤棒にかけ売り歩いていたそうです。
所沢では一番古い煙草屋で地元の人からは坂のたばこ屋と呼ばれていました。
今でも明治時代の看板(天狗煙草)が保存されています
母親の祖父は江戸道(現・銀座通り)で油商・父親は小間物商を営んでいました。
明治32年所沢商店便覧図にも名前が残されています。


山口観音・金乗寺にある絵馬「観斎筆 煙草屋図大絵馬」は先祖が奉納したのではと言い伝えられています。

写真は昭和10年頃の生家の店頭の写真です。
店名は父親の名前金蔵から三金商店となっています。
昭和20〜25年頃の根岸交差点界隈のお店



懐かしのファルマン交差点界隈の写真をご覧下さい。


生家の右隣(現くるみ:うどん屋)は人力車の停車場だった様です。
私の兄以上は皆覚えています。私の記憶の中では田中食堂(並木ダンゴ屋)でした。
人力車場 

その隣は渡辺金物店で電灯が未だ無かった昔はランプを売っていました。坂のランプ屋と呼ばれていました。
裏の納屋には沢山のランプやランプのホヤがありました。昔の子供達は煤がついたホヤを掃除するのがお手伝いの一仕事でした。

のランプ屋

ファルマン交差点界は坂上とも呼ばれていました。
明治九年に大和田警察署所沢分署として字坂上に設置され、その後所沢警察署になり明治21年に元町に移転し三町十五か村を管轄していました。
生家のすぐ前でしたので父親が祖父から聞いた話として当時は囚人が拷問を受けた時の声が聞こえてきたそうです。

川端霊園前にある庚申堂もこの交差点にありました。

昔の道は家の前を通る大通り(江戸道)から旭町を通る引又道、川端霊園前を通る市街道があり、やがて飛行場の開設にともない、飛行機新道と呼ばれる道が大正元年に施設され、陸軍病院の開設に伴い昭和16年に七世橋が架設され新しい道が出来、交差点になり、角の鉄砲玉の飴を作っていた根岸菓子店の名前をとり根岸の交差点と呼ばれる様になりました。私の家を含め坂にあるので、坂の煙草屋、坂のランプ屋などと呼ばれる様になりました。

飛行機新道の西側入口には松葉屋さんと言う大きな炭屋さんがありました。
江戸時代は旅籠か料理屋だったようで、部屋も沢山ある大きな家でした。現在はマンションに建て替えられています。
明治初期までは武蔵屋、坂口屋らの料理屋が建ち並び、福泉藤吉と二人のとうきちと言われた、明治時代の将棋の名士:大矢東吉がこの料理屋で
全国の将棋差しと対局をしていました。

鍋屋横町の入口の鍋屋米店の所には江戸時代の将棋の名人と言われた「福泉藤吉」が生まれています。
家業は紺屋だった様です。
坂稲荷の拝殿に描かれている市の文化財「社殿装飾絵」を描いた江戸後期時代の南画家三上文筌もここで生まれ育ったそうです。



坂下には所沢宿の下町の商人を中心に信仰を集めていたお稲荷様があり、創立は寛政年間(1789〜1800)と言われています。
300年の伝統を誇る「所沢の三・八の市は、ここを起点にして上町(金山町)まで露天商が出て賑わっていました。
慶応2年の武州一揆の時にはこの稲荷前で休んだ後二つに分かれ、一隊は安松村、他の一隊は中富村を目指して所沢を退去しています。

江戸後期の史家、「武藏野夜話」を書いた斎藤鶴磯(さいとう・かくぎ)寛政12年(1790年)書になる「坂稲荷神社幟」・市指定文化財が残されています。
この斎藤鶴磯も稲荷神社の近くに住んでいました。


近所のお稲荷さん(坂稲荷)は幼い頃の遊び場でした。

石垣をよじ登ったり参道で石蹴り、階段で遊んだり、狐の造に跨ったり
お堂の周りには桜の木があり桜の時期は満開の花が咲き
花びらを針で刺し糸に通して首飾りを作ったりしていました。
夏には蝉が沢山いましたし、周辺の植え込みには大きななデンデン虫(カタツムリ)がいて幼虫から孵ったチョウチョも飛び交っていました。

坂稲荷前の横丁(横宿)を入ると所沢演芸館がありました。
大正時代の無声映画時代は弁士と楽隊がいて物日には大変賑わったそうです。
横丁の入口には映画館のポスターが架けられていました
幼年時代は良く姉に連れられて映画を見にゆきました。
「踊る狸御殿」や嵐寛十郎の「鞍馬天狗」「丹下左膳」等を見ては手ぬぐいで変装して
チャンバラごっこをして遊んでいました。当時(戦前)の映画館は2階に上がるときは下駄を脱ぎ下足札をもらってから
一部畳敷きの席について見ていました。冬は火鉢があり炭火で暖を取りながらの鑑賞でした。

ニュースでは必ず戦争の場面が出てきて日本軍の活躍が紹介されていました。


ファルマン交差点界隈には明治時代から100年以上続くお店がまだ数件営業しています。

明治時代の店舗



鍋屋横町の福泉幸三郎は江戸時代の将棋の名人だった福泉藤吉の子孫です。

煙草商:三上林蔵は私の祖父で文久元年生まれ三代目現在は5代目の甥がまるみやを継いでいます。
蒟蒻商:田畑源蔵は現在は田畑食品
菓子商:根岸重吉はお菓子の店 ねぎし
三上菊次郎は松葉屋燃料店
理髪師:栗原吉五郎はダイエー前の栗原理髪店
製茶仲買商:鈴木政七はお茶の丸政園
荒物商:三上喜三郎は鍋屋米店

大通りは未だ砂利道で、農家の方が各家からくみ取った糞尿を桶に入れて馬に引かせた荷車で運んでいました。
家の前は少し坂になっていましたので馬が滑って桶が道に落ち異臭で大変な騒ぎとなりました。

大雨が降ると側溝の溝が溢れ道は川の様になり商店の品物等が流れてきたこともありました。

雨上がりの空には七色の虹が見え、水たまりには
無数の赤トンボが飛来してきたりしたこともありました。




家の向かい側の北に下がる道は所沢飛行場(陸軍航空整備学校)への道で飛行機新道といわれ軍人さんが大勢往来していました。
現在は航空公園への道です。旭橋を渡りガードをくぐった所に御幸町駅がありました。
毎朝起床ラッパや飛行機のエンジンの音を聞いて育ちました。
夕方になると母親に連れられて飛行機新道のガード際にあった
御幸町駅まで父を迎えにゆき、帰りにガラス細工の動物を買ってもらうのが楽しみでした。
駅は長い石段の上にあり待っている間は妹とジャンケンでチヨコレイト等と言いながら階段を上がる遊戯を楽しんでいました。
中学生時代はこの駅から都内の学校へ通っていました。
飛行機新道には模型飛行機屋さん、ウサギ屋さん、玩具屋さん、喜多川写真館、小川接骨院、柔道道場、荒物屋、八百屋、洋服仕立て屋、
新聞屋、時計屋、材木屋等沢山のお店が並んでいました。
柔道道場は外から窓越しに見る事ができ、かけ声や段取りで受け身の畳を打つ音が響いていました。
今は高いマンションが立ち並ぶ道に変わってしまいました。

飛行機新道の入り口には大正時代の火のみ櫓が残されています。今は高層ビルに囲まれその役目を果たすことが出来ませんが、
昔は町の一番高い所にあり、町中の大通りからの写真には姿が写っています。
子供の頃は内緒で登ったものです。戦時中は所沢飛行場へ艦載機が時々飛来し、機銃掃射を浴びせ時にこの半鐘すれすれに飛んできます。
私が生まれて初めて外国人の姿を見たのは操縦するパイロットの姿でした。

現在町の案内版がある所には尾張屋菓子店がありました。バスの停留場がありました。
この店で小学生時代に野球選手のカードが入った紅梅キャラメルを毎日買うのが楽しみでした。
このお菓子屋から浦和方面への道(市街道)は昔は砂利道で車の往来も少なくお正月は羽根突きをしたりして遊んでいました。
川端霊園への道の突き当たりには坂本屋さんと言う駄菓子屋さんがあり、
畳の部屋ではお好み焼きやもんじゃ焼きを食べることもできました。
七世橋が出来る前はここまでしか道が無く、根岸菓子店の裏の道が本道で引又道と呼ばれていました。

市街道

交差点を起点として川端霊園の前の道を市街道と言い
牛沼村で「江戸みち」と「八王子みち」に分かれ、江戸時代は東部にあたる柳瀬・大和田・志木方面より買い物に来る人、
又所沢の三・八の市に商品を運ぶ荷車等庶民の往来で賑わっていました。

私の家の墓地も此処にあります。
我々は墓陵と呼んでいました。

この霊園には江戸時代の将棋の名人、福泉藤吉の墓があります。

古い地図を見ると現在鍋屋米穀店の所に彼の地所が明記されています。

又、所沢の無形文化財重松流祭り囃子の始祖・古谷重松氏のお墓もここにあります。
坂稲荷の社殿装飾絵(市の文化財)を描いた江戸後期時代の南画家三上文筌の墓もここにあります。


この霊園の前に庚申堂があります。
この庚申堂は江戸末期頃建立されたもので、内部には青面金剛が奉られています。
境内には今から337年、302年、290年前の浮彫庚申塔3基と260年前の野老沢村の文字が刻まれている六十六部供養塔があります。
子供時代はここにあったサルスベリの木に登ったり、樫の実(ジンタンボウ)を拾ったりした格好の遊び場でした。

踏み切りの際に借りていた畑がありました。戦後の食糧難当時はここで野菜を栽培していました。
踏み切りを渡ると桑畑が広がり道端にはお茶の木が連なり、この道で自転車の稽古をしていました。
時々桑の実(ドドメ)を食べては口の周りを紫色にして帰り、母親からいつも怒られていました。
桑畑の中に大きなクヌギの木があり、夏になるとカブトムシ、玉虫、カナブン等が沢山捕れました。
現在は住宅地になっています。

七世橋が出来る前はここまでしか道が無く、根岸菓子店の裏の道が本道でした。
引又道と呼ばれていました。


旭町界隈

引又(志木市)から新河岸川を利用して物産を運ぶ重要な道で引又道と呼ばれていました。
昔は旭町商店街がありお店が沢山ありました。

この道には沢山の商店が建ち並んでいました。
所沢から志木、浦和、清瀬方面に行く重要な道路でした。
道路の両側には酒屋、だんご屋、足袋屋、魚屋、荒物屋、旅館、その他軍人さんの下宿屋ら賑わっていました。
所沢の無形文化財重松流祭り囃子の始祖・古谷重松氏もここに住んでいました。

昭和の初期頃、この辺には朝鮮人の方が住んでいてお正月には綺麗な民俗衣装を見る事が出来たそうです。

ねぎし菓子店の裏の道におかめの面や熊手を作っていた家や石屋さんもありました。

こちらで作られた熊手はお正月に神明神社の境内で売られ、商売繁盛を願う人達が買い求めていました。
我が家も全員で大晦日の除夜の鐘を聞きながら神明神社で初詣をして熊手や張子の獅子等を買い肩に担いで帰ってきました。


真すぐ坂道を上がると浦和方面に行く大きな道に西武新宿線にかかる七世橋があります。
この道は旭町のはずれにあった陸軍病院(現・市民医療センター)があり、
急病、負傷した軍人を急いで搬送する為に軍の命令により昭和16年に完成しました。
謂れは一刻も早く病院に運び、再起の為に治療し七度生まれ変り国に尽くす、
いわゆる「七世報国」の言葉から「七生橋」と名付けられたそうです。
現在は「七世橋」と表記されています。

ここの土手で遊んだり、
当時は汽車が煙を吐いて走っていましたので、橋の上で煙に巻かれるのを楽しんだりもしていました。
線路に大きな釘を置き電車が通り過ぎると平たくなった釘で小刀を作ったりした事もありました。

七世橋を渡り坂を下りきった所の十字路を右折して西武池袋線の踏み切りの所に東所沢駅がありました。


現在のグラシスタワーの右側と米穀店(鍋屋さん)の間の道は鍋屋横丁と言われ幼い頃の遊び場でした。
横町の入り口には高さ30Cm幅50Cm位の四角い石柱がありました。
昔、夜行灯か、地蔵の台なのか現在は残っていませんが、学校に行く時には毎朝この上に乗って行くのがいつか習慣になっていました。
田中医院の前に小さな広場があり、近所の子供達の遊び場でした。
紙芝居がいつもやってきました。
拍子木と太鼓を持って近所を一周したりしていました。
水あめを練って白くする競争をして一番早く白くすると景品が貰えました。
山口屋荒物店の横からは長屋が続き、駄菓子屋、建具屋、豆腐屋があったそうです。
残っていた駄菓子屋では、新聞紙の袋に入った野球選手のブロマイドを引いてホームラン賞等が当たると
大きな選手のブロマイドが貰えました。
この時集めた野球選手のブロマイドをご覧下さい。

鍋屋米店の裏には昔はカフエー:キングがあったそうです。







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