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所沢飛行場物語
開設 2006.05.01 |
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2011.3.14
2011.4.3.



所沢飛行場での最初の飛行訓練は4月5日から9日までの5日間行われました。
当時の新聞には所沢飛行場での飛行演習の様子が詳しく報道されています。
飛行場開設の一週間ほど前の3月27日に開通したばかりの電話を利用してニュースが送られました。
明治44年4月5日所沢飛行場ははじめての飛行試験日を迎えました。
※当時の新聞記事から見た初飛行
(埼玉新報 明治四十四年三月二十六日)
来月四日より飛行機演習を開始する筈なる入間郡所澤の陸軍飛行機豫行演習は去る二十一日より準備に着手し
中野気球隊の徳永隊長以下下士官十数名井上少将(仁郎),牛奥、山本、田中館、中村(精男)両博士等
気球研究会委員は全部同飛行場に出張し同時に徳川大尉乗用のブレリオ式単葉ファルマン式複葉の二飛行機をも
搬び同日は殆ど飛行場開きの観を呈し爾来徳川大尉は所沢町秋葉旅館に滞在して毎日演習準備に奔走し居れり
飛行場は未だ工事捗らず気象観測所は竣工せざるも飛行機格納庫一棟は落成し地夷はエンジンロールを運転して
略完成に近づき一昨日午前十一時半徳川大尉は新著ブレリオの単葉を格納庫より引出し工兵隊より特に出張せる
工兵数十名を督して発動機の試験を開始したるに見る見る観客は飛行場の入口付近の埒(かこい)に山の如く群
がり所澤署員出張して入場を厳制したり廿三萬坪の広大なる飛行機の一隅にありて飛行機は廻転を始め
滑走十数間今にも飛揚せんとしが折悪く風強く雨さへ加わり遂に同十二時半格納庫に納めたるが猶ほ昨日午前頃より
ブレリオ式ファルマン式両飛行機の第一回飛行実演したり是れに就て中野気球隊よりは昨日午後五時中野にありし
日野大尉乗用のライト式複葉、グラテー式単葉両飛行機並に曾て代々木練兵場にて用心し天幕二張をも運送し
気球隊の将校士官は不日全部所澤に引移るべし
*文中「秋葉旅館は秋田新道にあった松葉旅館では・・」
*梱包された我が国初の飛行機は分解され東京府中野町の気球隊から川越鉄道で国分寺経由所沢駅まで
輸送されました。国分寺駅近くの花沢橋は当時は川越鉄道のトンネルでした。
飛行機の梱包が大きくこのトンネルの通行可否が危ぶられたといいます。
所沢駅から、牛車で荒地や墓地で淋しかった駅前通りを運ばれ、
ファルマン交差点の坂稲荷前(横宿)右折し鳥居橋で東川を渡り川に沿って東行して川越鉄道のガードをくぐり飛行試験場正面に到着しました。
(当時飛行機新道は開通していなかった。
明治44年7月29日内務省道路敷用地として買収)
明治44年4月5日所沢飛行場ははじめての飛行試験日を迎えました。

この一大行事に対して所沢町民と松井村民は飛行場内に特別観覧所を設けました。
場所は飛行場西側柵内の好位置で幅5間・長さ100間(約500坪)の広さでした。
これを所沢町1,300戸、松井村500戸と計算して七分三分で配分し、ここに下仲町(寿町)の荒井屋から
十枚八十五銭五厘で買った古莚をひきました。観覧人入場券は役所で作り、五人以下の家庭には一枚、
五人以上は二枚、十二人以上は三枚という割合で配分することにしましたが、配分は世話人の仕事で、
調査が面倒なので、各町に各戸一枚としその三割増しの入場券を配り配分することにしました。
(北田斧吉日記)
観覧席は@来賓・将校・記者席,A特別観覧者席(所沢町民・松井村民)
B団体観覧者席に区分され松井村と所沢町の在郷軍人会会員がその接待にあたりました。
此の他、町の山田呉服店は周辺に紅白幕を張った高座敷を設置し得意先を招待し、
桜の下での酒宴を開いたりした様です。
商店街は「祝・飛行場開場」と大書した横断幕を掲げ、日の丸を掲揚しました。気球研究会でも来賓用観覧席を新設し、東京=所沢間の送歓迎用自動車数十台を借り出し、電信隊は総がかりで陸軍省や中野の気球隊との間に長距離電話を仮設しました。
*所沢町には電話が前月の3月27日に開通。
飛行機は、風速毎秒6m以下でなければ飛行しなかったので、朝夕の風の少ない時が飛行演習に使われました。臨時軍用気球研究会でも気象観測所の屋上に旗を立てて《「演習なし」(白)、「準備中」(赤白)「飛行」(赤)》知らせました。飛行演習時間は早朝が多く見学はなかなか大変でした。
新聞では東京よりの見学者は「所沢の宿舎は殆ど満員」なので「前日午後所沢の前駅東村山迄来たり一泊し、
朝五時迄には所沢に来るのを良策」といい、どうしても「所沢に泊まらんとすれば普通の民家に頼むべし」
(国民新聞明治44年4月9日)と伝えています。


徳川好敏大尉は後に「日本航空事始」と題する本を著わし、其の中で初飛行の様子を述べています。
「第一回目の飛行演習の時は、花見の時期とも重なり、飛行場の周囲には、
腰ににぎり飯をぶらさげてワラジばき姿の見物人がつめかけ、
食べものなどの屋台店が出て、まるでお祭り騒ぎであった。
母親と思われる80歳ぐらいのおばあさんを荷車に乗せて見物に来ていた地元の人らしいお百姓さん、
学生などの姿を記憶している。
飛行場の西側には地元の人が桟敷席を作り、一人10銭の席料を取っていたが、
これも満員の盛況だった。」
飛行演習の見物者の為に川越鉄道では各駅から所沢行き三等に限り二割引きの往復切符を発売しています。
(埼玉新報)

所沢市史下より転載
(国民新聞 明治四十四年四月五日付)
※所澤の飛行開始さる*
埼玉県所澤の飛行練習場は三日其の豫行演習を終り、各委員等は諸般の準備全く整ひたれば、雨の霽るゝを待っ
四日飛行の豫定なるが、所澤にては渋谷町長以下町会議員、有志者、委員諸氏を助けて能ふ限りの便宜を図り斡旋怠りなく、役場より練習場に至る道筋には諸所に道案内の標札を立て、特に飛行場の周囲は悉く畑を以て包まれ居りて、所澤より中留村に通ずる大道は練習場を縦貫して居るより、飛行の際観覧者の畑を蹂荒さざる為往還傍なる適宜の地に一般観覧場を設らへり、埼玉県警察本部よりは警官数十名来澤して東京憲兵隊より来れる憲兵数名と共に警戒に務め居れり・・以下略(三日夜特派員所澤電話)
*我国空前の飛行*
所澤飛行試験場の豫備試験 悠々十二哩の空中を航行す
所澤に於ける飛行試験の第一日は強風の為中止したるが、第二日は午前四時より開始せり。徳川大尉のファルマン式はシャフトに故障を生じ好成績ならざりしも、日野大尉の搭乗せるライト式は非常の好成績にて前後二回飛行せり殊に第二回目に於いては實に十八分の長時間に十七基五百米突(約十二哩)を飛行せり、是れ豫備試験なりしと
雖も我国に於ける新記録にして、陸軍の飛行は豫備試験に於いて此大成功をなし恐る可き威力を示せり
▲午前四時天尚ほ薄暗き頃、二声の喇叭はこの日飛行すべきことを各委員に通報せり、すわこそと土地の人々は寝巻きの儘に寝惚眼を擦すりつゝ飛行場に駆け集まれば、既にファルマン式は場内に引き出され発動機は盛んに音を立てつゝあり、空は曇れども風は僅かに三四米突に過ぎず、徳永気球隊長・中村・田中舘両博士其他の委員等は之れを圍繞して其試験の如何を検す、五時十分徳川大尉は飛行服・飛行帽に身を堅めて出て来り、臺上に登れば推進器は盛んに囘轉を初め滑走約三十五米突にて飛揚し初め十五米突の高さに昇りしも、シャフトの具合宜しからず推進器の囘轉悪しくなりたるより、約一分間の後富岡村の前にて下降するの餘儀なきに到れり、夫より地上を滑走して帰り来り「シャフトの中に砂塵が溜まりし為か具合宜しからず,更らに手入れをして飛行を試みんとて中止したり」夫より日野大尉のライト式の試験に移れり
▲六時廿分ライト式の二個の推進機は手によって二三回引廻さるゝや忽ちに盛んに囘轉を初む、一分間約四百囘轉(ファルマン式は一個の推進機にて千二百囘轉)を為す、黒色革製の飛行服を著け飛行帽を被れる日野大尉は無造作に臺上に登り、時分よしと手を拡げて合図を為せば、支持せる兵士左右に立退くと同時に滑走を初め。約三十米突にして飛揚し初め漸次高昇し、約五十米の高さを持しつゝ廣き飛行場を一周半して中央に下降して滑走格納庫前に帰り来れり、此距離四千米突時間三分三十秒なり、
日野徳川両大尉以外の人の操縦訓練も行われ、主に滑走訓練でしたが技術も未熟だったために何件かの事故が起こってています。9日の李王世子殿下が見学する中で日野大尉操縦のライト機が冷却水が漏れる事故と機関の破損事故がおこりました。飛行機は無事着陸しましたが、推進機(金属)と翼の支柱(木)と舵の支え木を破損。4月29日より第2回飛行演習を開始、29日。梅北兼彦海軍大尉はグラーデ単葉機で第一格納庫付近を滑走中、発動機高回転により急上昇、15m上空より墜落し頭部を負傷し、最初の飛行機事故をおこしています。
韓国皇太子 李王世子』殿下
| 飛行機新道の開設 | 将校住宅と下宿屋 | 浦町(有楽町)界隈の賑わい |
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