2008.12.18.



平岡徳次郎像


平岡徳次郎は、慶応元年(1865年)生まれで、向山小平次とは16才違いです。武蔵織物同業組合の初代組長である向山小平次が亡くなった大正13年57才で第3代組長を引継ぎ、昭和2年62才で早世しました、

昭和3年に発行された所沢織物誌が、「特色ある、量よりも質において優れたる製品を提供しつつあることは、・・・堅実にして合理的なる行き方であるとともに、他の同種品をリードしつつある点において、産業上の地位もまた、自ら高きを加えたと言い得る」と断言していますが、それを牽引したのは、平岡徳次郎この人と言っても過言ではありません。

平岡商店の創始は入間市仏子の宮岡徳次郎氏で、八王子の仲買商である落合八郎衛門氏のもとで修業し、仏子に戻り平岡忠一氏の地所を譲り受け
「平岡」を名のり、屋号を「八」としました。商いは買継ぎで入間一帯の織物を扱っていました。
店は仏子にありましたが,所沢での市に加わるために、マチ内に「市日」だけ「取引所」を設ける様になりました。
これは明治初期から大正八年に日吉町に店舗を新築するまで続きました。

取引所は、はじめは旧上町(元町)のマルヤ(元/丸屋酒店)の庇(ひさし)を借りていました。
広さは間口二間、奥行き三間くらいで、板を置き座敷をしつらえます。市の日に、各機屋や仲買が織物を持ち込みます。
品物にもよりますが10反づつ束にし持ち込んできたそうです。これを確かめその場で手形を切り、又番頭が集めに廻ったそうです。
この品物は,整理屋と仕立屋に回して商品として小売ができる様にします。
大正初期には元町の元/栗原金物店のあたりに空店があり、これを借りて取引所を開き、この時には番頭も寝泊りできる様になったそうです。

明治30年代終わりの所沢の町場は、織物関係の店舗が軒を連ね、活気にあふれていました。徳次郎のまぶたには、所沢の地が、全国へと飛躍する夢をかなえる場としてとらえられていたことでしょう。

実際、所沢に店舗を移したことで、徳次郎は「湖月」をひっさげて、全国に名をはせることになるのです。

飛躍を誓って  「所沢進出」 40才 明治38年

明治40年から42年にかけて日露戦争後の反動恐慌により、所沢織物は大きな打撃を受けることとなりました。

明治40年、川越町の有力綿糸商兼買継商の高仁商店破産のあおりをうけ、同店と取引関係にあった所沢町の有力買継商の向山商店、有力綿糸商の秋田商店が大打撃をこうむりました。この結果、両者のメインバンクであった所沢銀行と所沢貯蓄銀行で取り付けさわぎが起こりました。向山小平次はこれによって巨額の損失をこうむったようで、この事件は、「川越・所沢金融恐慌」として新聞紙上でも大きく取り上げられました。

所沢織物業界を代表する絣木綿の生産は、明治39年から40年を最盛期として、その後一転して極度に落ち込みます。このため、元機屋をはじめ、所沢の商人も一時経営難に陥るほど大打撃を受けました。明治42年には、所沢商業銀行の重役を努め、武蔵飛白同業組合の副組長であった三上重蔵が破産に追い込まれています。

この間、徳次郎は着々と地歩を固め、大正4年には、引退した向山小平次に代わって武蔵織物同業組合の評議員に選ばれました。

大正期に入って急成長を成しとげた徳次郎は、その信用を背景に、評議員に選ばれた2年後の大正6年に同業組合とは別組織の湖月会を結成しました。
大正八年三月に日吉町に店蔵、棲蔵、倉庫を新築しました。

湖月会は飯能町の細田栄蔵を筆頭とする、有力でしかもしっかりとした技術的基盤を備えた約10名の有力な機業家を結集し、県立川越工業高校卒業などの経歴に順ずる学識と技術を兼備していることを会員資格としていました。

湖月会は、一種の試作とプロダクションを行うトラスト組織ともいうべきもので、会員が製造した新製品を徳次郎が全て買い取り、販売リスクを負いながら全て捌きました。これまで、口銭2%をとって買い継いでいたのとは大きく異なる仕組みを散りいれたものでした。

湖月会は、湖月、湖月縮、湖月明石などを次々に開発し、主に関西方面に販売ルートを広げ、出荷しました。

販売促進のため、6大デパート向けの品評会を催したり、当時の婦人雑誌「婦女界」に毎回広告を出したり、中山晋平にコマーシャルソングを作曲してもらったり、人気画家の竹下夢路に挿絵制作を依頼したりしています。

流行をいち早く吸収し、意匠研究や新製品開発を積極的に行うなど、所沢織物を高級綿着尺地の産地へと発展させました。湖月会の発展によって、大正後期から昭和初期にかけての所沢織物業界は最盛期を迎えることとなったと言っても過言ではありません。


徳次郎は、大正11年、57才で武蔵織物同業組合の第3代組長に就任します。

既に、第2代組長平岡甚蔵の手によって組合事務所が新築され、第2段の活動に入るべき時であるという考えのもと、次々と新しい試みを打ち出します。

大正12年には、組合月報を創刊し、自ら組合員指導の論説を執筆したり、施設や製織の方針を研究するため全国各地の視察を奨励し、自らも足を運びました。

また、大正13年には組合員の総合的研究機関として九日会を立ち上げ、翌14年には、新ほぐし織を研究して特許権を獲得するなど、短期間のうちに所沢織物と組合の発展に大きな貢献を果たしました。

徳次郎は非常に進取の精神に富んだ人でした。所沢がこの時期、平岡徳次郎という人材を得たことは、所沢の町にとって、非常に幸運なことでした。ただ、62才という若さで早世したことは、返す返すも残念なことです。徳次郎がもう少し長く生きていれば、所沢織物のその後の歩みも違ったものになっていたかもしれません。また、所沢の町場のあり方も変わっていたかもしれません。

町はやはり、人によってつくられるということをあらためて感じさせられます。


参考資料:「所沢織物誌」「ところざわ歴史物語」


織物の町:所沢  所沢織物物語  平岡徳次郎商店



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