2001.NOV.042011.11.21=2011.12.20






戦後、既に半世紀以上過ぎ21世紀を迎えようとしています。 
「ジャズ」は我々熟年にとって青春時代のノスタルジーを甦らす源です。

 曲が聴けます。

日本ジャズ史・戦前編

日本では大正時代にはすでに貿易港で賑わっていた横浜や神戸でアメリカの船員達がニューオリンズ・スタイルのジャズが演奏され、
大正11年・3月、東京の上野公園で「平和記念大博覧会」が開かれ、アシカの曲芸と共に、黒人バンドによる「ミンストレル・ショー」がやってきて、
デキシーを演奏していまして。このメンバーの一人が日本のジャズの黎明期を担い、
多くのジャズメンを育てた異国(フィリッピン)の三兄弟(ヴィディ、レイモンド、ゴリオ)の長男
ヴィディ・コンデがいました。

1920年代
バンドマンの誕生

ジャズの日本上陸は、政治家の父の秘書として渡米した大学生、菊池滋彌がデキシーのレコードを持ち帰った
1921年(大正10年)だと伝えられています。

昭和の初期に神戸にあったデパートや消防隊がバンドを結成し演奏を始めました。
映画館は未だトーキー映画では無く、弁士と劇音楽の為のバンドが必ずいて、休憩時間に流行りの曲を演奏していました。
秩父丸、龍田丸といった船内にダンスホールを持つ豪華客船がロスアンジェルスやサンフランシスコから楽譜やレコードを運んできました。
当時この船に乗っていたのがドラマーのジミー原田(原田高忠幸の父)さん等がいました。
「ピーナッツ・ベンダ」「シボネー」等の楽譜が本場から一ヶ月遅れで手に入った様です。

    

ダンス・バンドにジャズが浸透してゆき初のデキシーレコードを持ち込んだ
菊池滋彌(P)を含めた裕福な
大学生達がバンドを結成し演奏を始めました。



アーネスト・カイは昭和2年に来日し当時のジャズメンの育成に貢献した人でした。

「ダイナ」の歌で知られるディック・ミネさんも立教大学でバンドを結成してダンスホールで演奏をしていたそうです。



上に木魚を並べた28インチバス・ドラムの後ろがディック・ミネさんです。

プロとしては宝塚オーケストラで有志を募って23年(大正12年)に日本初のジャズ・バンド・ラフィング・スターズを神戸で旗揚げした

井田一郎
(bjo,vin)がパイオニアとしてしられています。
その井田が、大正天皇崩御による大阪のダンスホールの営業停止を契機に上京、
1928年(昭和3年)に浅草電気館の舞台に立ったのが東京ジャズ史の始まりとも言われています。

ちなみに当時彼の指導を受けてジャズを歌いスターになった一人がブルースの女王と言われた淡谷のりこでした。
昭和2年、大阪市内のダンスホールは閉鎖されましたが、カフェーではフィリッピン楽団、日比混成楽団、日本人の楽団等はジャズを演奏していました。



昭和5年頃 大阪道頓堀「赤玉」で演奏していたフィリッピンバンド
”日本ジャズ・ソング”初の大ヒットとして有名な
二村定一(vo)の私の青空」「アラビアの唄」は日本ビクター、コロンビアの両社で発売され、
そのバックは前者を
井田一郎ジャズバンド後者が菊池滋彌レッド&ブルー・クラブ楽団の演奏でした。

裕福な資産家の蓄音器で本場の演奏に出会い同じ楽譜の演奏でも大きな違いに、
多くのミュージシャンはショックを受け、本場の音楽に触れたくなってゆきました。

上 海・シャンハイ

上海の英米の租界地に本場のミュージシャンが出稼ぎに来ている事を聞き、次から次ぎへとミュージシャンは
上海に渡り、
本場のミュージシャン達の技法やスピリットを盗んだと言われています。

租界地のホテル、クラブ、ダンス・ホールで演奏をしていました。



ルイ・アーーム・ストロングを愛好していた
南里文雄、レイモンド・コンデさん等日本のジャズの創世記に活躍した人達がいました。



上海の租界地にあったサボイホテルのバンド

映画
「上海バンスキング」からも当時のジャズマンの事を界間見ることができます。
当時のジャズは未だ初歩的な模倣の域を出ていませんでした。
あちこちのダンスホールでスイングジャズが演奏されたのは1930年代以降の事でした。

1930年代

1929年(昭和4年)溜池に開店したフロリダを筆頭としてダンス・ホール中心にジャズが演奏され、
フロリダではプロに転向した
菊池滋彌が大活躍し、1933年(昭和8年)にはコロンビアジャズ・バンドと合体したフロリダ・オーケストラを率い、
戦前最高のジャズ・バンドに仕立てあげました。
南里文雄(tp),谷口又士(tb)松本伸(ts)等の実力者がずらりと揃っていました。

1935年(昭和10年)には前述のディック・ミネ(vo)のダイナ大ヒット、
バックを勤めたのは前年秋にに結成された
南里文雄のホット・ペッパーズでした。

この頃が戦前のジャズのピークでした。

1937年日華事変、1939年フロリダ閉鎖、40年ダンスホール閉鎖、41年(昭和16年12月8日)太平洋戦争突入、
43年ジャズ・レコード発売、演奏禁止と米英国の曲全面禁止とジャズは敵国音楽、亡国音楽と決めつけられて、演奏も聴くこと禁止されましたが、
唯一NHK放送で敵の米兵に向け「謀略放送」の中でジャズ演奏が行われいました。

    

対米謀略放送に使われた譜面

この演奏者の中に歌手の「
森山良子」さんのお父さん、日本のジャズの名ペット奏者森山 良、「かまやつひろし」の父親ティーブ釜范がいました。

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Hiroshi’s Jazz Club


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