所沢飛行場物語
開設 2006.05.01

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 2011.3.16.




気球隊



電信第一連隊 中野町

日露戦争(1904:明治37年:2月8日〜1905年9月5日)時、陸軍は旅順港偵察用に凧式気球の製作に成功していた山田気球製作所(山田猪三郎社長)に命じ急ぎ2機の繋留気球を作らせ、明治37年6月7日、臨時気球隊(隊長・河野長敏工兵少佐)を編成し8月上旬から戦闘に参加しています。臨時気球隊は敵の攻撃を受けながらも砲兵射撃観測、要塞や港内の偵察を実施し、我が国最初の航空部隊の戦績を飾っています。
気球の野戦における重要性を認識した陸軍は第1師団隷下に気球隊を設け、電信教導大隊(東京府中野町)内に収容、要員は毎年各工兵大隊より下士官5名づつを分遣して気球兵教育を実施しました。
明治40年9月、鉄道連隊・電信大隊(電信教導大隊を改編)編合して交通兵旅団を新設、翌年10月、従来の気球班を発展改編した気球隊が常備部隊として創設、同様に交通兵旅団に編合されました。最初の常備航空部隊である気球隊は河野少佐を長として、隊員145名,馬匹9頭の編成でした。大正2年5月7日平時編成を改正し、気球隊気球中隊(中隊長心得:伊藤赳工兵中尉)新設しました。2年前に所沢には臨時軍用気球研究会所沢飛行試験場が完成し、気球隊は度々この地で野外演習を実施していたので飛行試験場の一隅には気球隊宿営用の仮兵舎が設けられていました。大正2年10月新兵舎が完成し中野から所沢に移駐しました。




気球隊歓迎の行灯を掲げる。
元町界隈の商店街

中野から所沢への気球隊の移転に際し町では、商店街では紅白の柱に歓迎の行灯を掲げ、所沢小学校の尋常科4年生以上が旧金仏跡(ダイエー前広場)に整列し歓迎しています。当時の様子は松井村の「気球隊歓迎松井村準備覚」によると歓迎のアーチを飛行場正門前の大通りに設置し、午後1時に村民が整列、2時気球隊長以下の部隊を迎え、気球隊万歳を三唱、隊の庭内に入り、隊長の諸兵への訓示、及び観迎者へ謝詞、所沢町長祝詞朗読、下新井区長代理の下新井の祝詞。松井村在郷軍人分会長の祝詞、郡長の祝詞にて終わる。別に下新井有志(20名)にて花火40本を打ち上げ、花火代寄付計金16円を集金、合計総経費26円89銭5厘。内10円89銭5厘、大字負担のこと、16円は10円を花火代、6円は有志の花火代として寄付金にて雑費を支払しています。

気球隊では飛行機操縦術、自動車運転術、機関分解融合、自由飛行、飛行気球操縦助手術、繋留気球による偵察、写真術の術科と飛行機学、飛行機操縦教程、機関学大要、ガス学大要、気象学大要その他の学科を教育しました。


博史の昭和青春グラフィティー

 

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