2007.1.3.2010.4.7〜2011.7.16.


明治時代の所沢

明治44年頃の大通り(下仲町:寿町) 明治末期頃の町の風車広告塔
中央が回る

明治時代の主な出来事

明治 6年 1873年 薬王寺を仮校舎に所沢小学校が開校 同9年同寺西側に2階建て校舎新築
仲町(元町)に芝居小屋:三好野亭(のちの三好野座)が開設される。(明治29年3月大雪の為倒壊)
明治 8年 1875年 大火 51戸及び土蔵・物置32棟が焼失する(2月)
明治 9年 1876年 埼玉県になる。
所沢警察署は、第二大和田出張所第四一屯所として上の宿に発足(ファルマン交差点付近)
明治13年 1880年 大火 河原宿(宮本町)66棟全焼(3月)
明治14年 1881年 所沢村から所沢町になる。(10月) 上新井村本宿と久米村金山を合併
戸数685戸 人口約3800人位(推定)
明治15年 1882年 金山銀行設立(金山町に所沢最初の銀行)
大和田警察署所沢分署が所沢警察署となる。
明治16年 1883年 明治天皇の飯能行幸で総勢190人余りが所沢町内に宿泊する。(4月)
明治18年 1885年 大火 裏町より出火 裏町24棟 上仲町・下仲町62棟全焼、4棟半焼(3月) 弥左衛門火事
明治19年 1886年 連合戸長役場が薬王寺所有の敷地に新築落成する。(10月)
明治20年 1887年 街路取締規則が発布される。(7月)大通りの3っの大井戸が埋められる。(9月)
消防組が発足(一番〜八番まで、592人)
明治21年 1888年 所沢警察署、上の宿(旭町)から本町上の台(元町)に移転
川越区裁判所所沢出張所開設(10月)
明治22年 1889年 市制町村制により、所沢町、松井村、富岡村、小手指村、柳瀬村、三ヶ島村が誕生
所沢町は上新井字本宿と久米金山を含んだ町域となる。
所沢倶楽部が結成される。
金山町・御幸町に間口6軒、奥行25軒の縞座を設置する。(三八の市の日に売買)
間もなく各自店頭で商談
明治26年 1893年 所沢銀行設立(のちの三菱銀行)
明治27年 1894年 日清戦争。 所沢からも100名以上が出征
明治28年 1895年 川越鉄道が前年の国分寺〜久米川間の開通に続き、久米川(東村山)〜川越間が開通し、
所沢停車場が開設される。

所沢商業銀行設立(昭和18年7月、埼玉銀行所沢支店となる。)
明治31年 1898年 白井要作らが所沢英和学校を開校・寿町(所沢高校の前身)
明治32年 1899年 所沢小学校が薬王寺敷地より字三本木(寿町:現在地)に移転する。
明治33年 1900年 所沢飛白同業組合が結成される。 山田呉服店開店
明治36年 1903年 下仲町(寿町)に芝居小屋:雛澤座が設置される。
のちに、大正2年歌舞伎座→昭和30年代中央映画劇場→昭和57年(1982年)閉館


武藏織物同業組合設立、のちに大正10年に所沢織物組合に改称
明治37年 1904年 日露戦争勃発 市域から500名以上が出征、内50名近くが戦死。
翌年旅順陥落:町民と学校児童合同の祝勝提灯行列が行われる。
明治41年 1908年 所沢町に公衆電話設置(郵便局内)
明治43年 1910年 所沢小学校を会場に、織物品評会が開かれる。(2月)
所沢尋常高等小学校と校名がなる。(4月)(男子・女子両尋常高等小学校合併)
町立図書館が所沢小学校内に開館する。
明治44年 1911年 下仲町(寿町)に山田屋呉服店が新装開店する。(11月)
所沢町の電話開通式が所沢小学校で行われる。(3月)第1回 49本
日本初の陸軍飛行場が開設される。(4月)
所沢飛行場にて徳川好敏陸軍大尉がアンリ・ファルマン機で日本初の飛行を挙行。
戸数1286戸 人口6679人 児童数1045人 
農:280戸 養蚕:90戸 生糸:60戸 木綿織物製造:180戸 物品販売:55戸 料理飲食店:49戸
明治45年 1912年 薬王寺所有地の小学校が新築移転し、同校舎を改築し役所庁舎とする。
所沢郵便局を大字所沢590番地(元町:現中央公民館)に新築移転
明治天皇崩ず。


所沢町の誕生
 


所澤村から所澤町へ

応4年(1868)7月に江戸が東京になり、9月には年号が明治と改まりました。

廃藩置県により所沢村は武藏知県事(明治元年)→品川県(明治2年2月)→韮山県→入間県(明治4年7月〜11月)→熊谷県(明治6年)その後明治9年には埼玉県の管轄となりました。「武藏国群村誌」によると戸数は429戸、人口2,428人、所沢学校の生徒数も204人、先生は6人(男5、女1)でした。

明治14年(1881)5月には県庁あてに村民359人が連署し、村から町への名称変更「村名改訴願」を願い出しています。村民の請願により10月には所沢村から所沢町となりました。当時は戸数600余り、郵便局や小学校もあり、三八の市日には、各商人が遠くは東京又は八王子、近くは川越・田無・飯能など近隣の村々からやってきて、米麦、雑穀をはじめ、種々の商品を並べ売買する様子は一小都市と言っても過言ではなく、この状況を見た他所の商人達は所沢へと移り住み商いをはじめる者が多くいました。

この様にして商店が連なって市街としての様相を呈していました。

明治15年(1882)には所沢最初の銀行、「金山銀行」が設立されています。

江戸時代に成立した三八の市は中心街の道路の中央に葦簀(よしず)張りの店を設けて近郊や近郷の商人達が商いをしていましたが、明治20年(1887)に道路規制が加えられ、人々は道路の中央3間分を県道として残りを道路に面する各店に払い下げをしてくれるように願い出ましたが、埼玉県は却下し、道路は全て県道になり、これにより商人の商いは市日に路上に出店していた従来の商売慣行はすたれ、店を構えておこなう売買へと変わっていきました。

明治22年(1889)町村制施行により上新井字本宿と久米字金山を含んだ町域となり、戸数は685戸、人口は約3800人位と推定されています。

この頃明治20年(1887)には消防組が組織され、21年(1888)には川越区裁判所所沢出張所が設けられ、28年(1895)には国分寺〜所沢〜川越間に鉄道が開通して東京との結びつきに大きな役割を果たし、町の発展に大きな力となりました。


大正初期の三八の市風景 現:銀座商店街

江戸時代に成立した三八の市は中心街の道路の中央に葦簀(よしず)張りの店を設けて近郊や近郷の商人達が商いをしていましたが、
明治20年(1887)に道路規制が加えられ、人々は道路の中央3間分を県道として残りを道路に面する各店に払い下げをしてくれるように願い出ましたが、埼玉県は却下し、道路は全て県道になり、これにより商人の商いは三八の市の出店ではなく、店舗での売買へと変わっていきました。



道路規制法が発布され、江戸時代から町の上・中・下には大井戸があり、井戸組合を作って共同井戸より水を得ていましたが、道路の中央にあった為に3つの大井戸も埋められてしまいました。
明治21年4月には大通り中央に桜と柳の木を植樹しました。

昔から水の不便な所沢は、町の密集さがかえって災いし多くの大火に見舞われています。



火災から守る為に土蔵造りの店蔵が建ち並びはじめました。

芝居小屋

宿場町であった所沢には古くから芝居小屋がありました。
明治6年6月(1873年)上町南裏(警察横丁・警察署跡・北の坂下)に小さな芝居小屋・「三好野亭」が誕生しました。

その後、代々名主だった倉片東吾氏が明治18年に増改築し、規模も大きく100人位は入れたそうです。
名前も三好野座と改名し、物日(盆・正月等)に興行し、主として歌舞伎狂言、時には人形芝居も行なわれていたそうです。
当時は興行は夜間のみで、客達は徳利に酒を入れて行き、ちびりちびり飲んでは、見物する者もいたそうです。
帰りは真っ暗な為、手に手に提灯を持って客は帰宅していたそうです。

この小屋は明治29年3月に大雪の為に倒壊してしまいました。
当時は前の坂道を「芝居横丁」と呼んでいたそうです。
その後暫く町には常設の小屋が無く、明治36年12月に所沢界隈の最大の雛人形問屋・「雛忠」二上忠蔵氏により、
下仲町(寿町)の崖下にあった砂村稲荷を整地した鯉のぼりの染場に、
芝居小屋「雛沢座」が誕生しました。

金山町の織物関連の店蔵群

織物のまち

明治20年代は所沢の織物生産が急速に拡大した時期でした。

明治22年(1889)には織物の買継商が織物仲買商組合を作り、粗悪品の排除をねらって、所沢織物市場を作り、市場取引に転換を図りました。三八の市での穀物やお茶にまじつての路上での取引をされていた制度を改めましたが、この市場も買継商と生産者間の直接取引の慣習が改められず、市場の利用者が減少しわずか4年しか続きませんでした。
この後、買継商の中にには所沢の中心部に店舗を構え、三八の市にこだわらずに、恒常的な商いをする様になり、20年代後半には、絣木綿の取引は店舗取引が主となり市での取引は全生産量の2〜3割しか取引がされなくなりました。
その結果、主力商人の店舗が中心街に建ち並ぶ様になり、上町(元町)から金山町には多くの織物関係の商家、下町(御幸町)から上仲町(寿町)には煙草、荒物、瀬戸物、青物、菓子屋などが並び商店の密集化に拍車がかかり、織物の集散地としても都市の様相を濃くしていきました。

明治39年には所沢絣の生産量が120万反とピークに達し、織物の町として栄えました。


   

小学校の開設


明治5年(1872)文部省が「学制」を頒布し、所沢でも明治6年に薬王寺敷地に所沢学校開設しました。                          
    
   その後明治32年に字三本木(寿町・現住所)に移転しています

明治20年頃の薬王寺境内にあった小学校 明治40年頃の小学校字三本木(寿町・現住所)

鉄道の開通  所沢停車場誕生

交通面では明治27年(1894)に国分寺と久米川間の鉄道が開通、
翌年には久米川(現東村山)と川越間が開通しました。
川越鉄道と呼ばれ現在の西武新宿線の誕生です。

所沢にも「所沢停車場」が誕生しました。

当時は町場から離れ、人家もまばらで、地名も新田とよばれ、所沢宿の場末で竹林と畑も多いところでした。
間もなく汽車を利用する人々の為に「待合茶屋」の小澤屋、神藤屋が開業されました。
明治38年4月に停車場の傍らに所沢警察署の派出所も出来、やがて人力車の常駐する俥屋も出来る様になりました。
一日の乗降客はわずかで、周辺の農村から大八車で甘藷や麦、薪、ごぼうなどの荷物ホームにを運ぶ人、貨車から物資を下ろして、得意先に運搬する馬方、大八車の往来も多く、多くの馬が集まるので金靴屋(馬蹄屋)、獣医も多忙だったそうです。



一日の乗降客はわずかで、周辺の農村から大八車で甘藷や麦、薪、ごぼうなどの荷物ホームにを運ぶ人、貨車から物資を下ろして、得意先に運搬する馬方、大八車の往来も多く、多くの馬が集まるので金靴屋(馬蹄屋)、獣医も多忙だったそうです。
明治28年に川越鉄道がひかれ、所沢停車場が出来ると暫くして停車場前に「待合茶屋」の小澤屋、神藤屋さんが商売を始めました。
神藤屋さんは、ホームニ汽車が入ってくると駅弁を売りでました。
のり巻き、叺(かます)すし(油揚げ)、時には水菓子(果物)も売っていたそうです。

明治43年度 川越鉄道の所沢駅状況

乗客 97,045人
下車 12,182人

大正4年(1915)4月、武蔵野鉄道(現・西武池袋線)が池袋ー飯能間が開通、
昭和2年には西武鉄道が高田馬場まで開通し、汽車から電車になりました。


大正13年には所沢駅前に当時画期的な乗合自動車が開業され、
川越・所沢・箱根ヶ崎・青梅の間を走っていました。

大正時代の所沢停車場 昭和初期の所沢停車場


所沢飛行場誕生



明治44年(1911年)4月1日、幅50メートル、長さ400メートルの滑走路と格納庫、気象観測所を備えた日本初の飛行場として陸軍所沢飛行場が開設されました。

同年4月5日午前5時37分、フランス製複葉機アンリ・ファルマンを操縦する徳川大尉は、この所沢飛行場で高さ10メートル、距離800メートルを1分20秒で飛行、初飛行に成功しました。


所沢飛行場ができ、飛行機や飛行船が飛びはじめると、飛行場には連日多くの見物人が遠方からやってくる様になりました。
遠足の児童たち、飛行兵への面会のため家族が全国から連日訪れるようになり、『まち』は飛行機ブームに沸きました。



江戸時代へ 大正時代へ



故郷所沢の思い出、情報ら何でも書き込んで下さい。
写真もOKです。

File not found.