2008.12.18.


所沢織物のブランド確立に尽くした偉大な功労者


油屋小兵次は天保年間から安政期に活躍した織物商人でした。
油屋は屋号で姓は向山(むこうやま)といいました。

幼名は徳冶郎といい、十四代目の家督を継いて織物業を始めました。
小兵次の名は十三代目からの襲名で以後17代まで受け継がれています。
十四代油屋小兵次は後の向山家の基盤を築いた人でした。
現在『十四代徳冶郎画像』として残されている肖像画は『江戸名所図会』などで知られる長谷川雪旦の筆による
画像の上には国学者六樹園による画賛が添えられてています。
画賛には『絵にかけるのみかはやすく世にふるも親のみかげ(御影)とあふけ(仰げ)孫子ら』とあり
創業者の遺訓ともいえる歌になっています。
油屋小兵次は安政五年(1857)78歳で没するが、所沢織物はこのころから周辺農村で生産が増え、
後を継いだ幕末から明治期に活躍した十五代、十六代小兵次が仲買人として所沢織物の販路の拡大に努めた結果、
向井家は急速に成長し、支店を開設したり、広範な商業活動を展開し、全国にその名を知られることにないました。

向山家は浦町(有楽町)の深井醤油屋から旧庁舎にかけて約四反(1200坪)の屋敷と庭を持ち、周りを塀を巡らしていました。
母屋は良質の建材をいろいろ使った二階建てで、西側を向いていました。
東の三階建ての蔵は勝海舟が維新の動乱期に一時身を寄せていた場所として知られています。
庭は広く、中央にはひょうたん池、小高くした筑山には銘木、銘石を配置していました。
廃業後この地は所沢の町に寄贈され
最初の町立公園になり、
昭和八年には薬王寺にあった役場が移築され町役場が誕生しています。


           向山小平次像


所沢の織物ブランド確立の足跡をたどる

明治14年:32歳

国会開設の勅が出た明治14年、自由民権運動の息吹の中で、向山小平次は家業を引き継ぎました。
32才の若き小平次は初代の功績の上に何を志したのか、その後の軌跡をたどると、所沢ブランドを打ち立てるという強烈な意志を感じざるをえません。

江戸時代末期に武蔵野国北多摩郡村山郷におこった「村山絣」は、東京都北多摩郡北部、埼玉県入間郡南部、北足立郡の一部に広がり、所沢を含む入間郡は新興の機業地として台頭しつつありました。
このころは、まだ所沢絣という名はなく、その名が今に残るのは、向山小平次というブランドメーカーの功績によるところが大きいのです。

所沢を中心とする入間郡が北足立郡(蕨周辺)とともに埼玉県内の2大機業地として頭角を現したのは、洋糸と高機(たかはた)をいち早く導入したことが大きな理由と言われていますが、それを主導したのは小平次をはじめとする所沢の買継商、糸商たちでした。
しかし、販路は南関東一円の集散地であった八王子を通じて全国市場に結ばれていました。
明治10年に八王子の最有力買継商である久保田商店が村山出張所を開設していますし、小平次も八王子織物買継商の仲間の一人でした。

明治22年:40歳

所沢の有力買継商に成長した小平次は、明治22年、店を継いでから6年目、40才にして旗揚げします。
その年はまさに大日本帝国憲法が発布された年、仲間3人に声をかけて所沢織物市場の開設を埼玉県知事に願い出ました。この地域の織物のもう一つの核である川越に先立つこと、21年前の話しで、大変先駆的かつ野心的な挑戦でした。

その当時は、農家の副業か賃織の専業者で、高機バッタンを使い、1〜2名の織子で家内工業的に製造していました。
買継商がそうした農家や賃織業者から集荷していましたが、買継商と農家が固定した取引関係にはなく、需要増大に伴う買継商どうしの買取競争の激化が粗製濫造を促し、販路を狭めるという弊害を引き起こしていました。
そこで小平次は、市場取引を通じて織物の流通を統制し、所沢仲買商の集荷基盤の確立と販路拡張を目指しました。
所沢織物市場仲買組合の組合地区は、所沢町、久米村、荒幡村、上新井村、山口村、勝楽寺村、北野村の1町7村、現在の所沢市域の西半分の地域をカバーしています。
所沢を中心とする集荷圏の確立を目指した試みでしたが、店員が農家に出向いて買い付ける「坪買」があとを絶たず、市場に十分に品物が集まらなくなって、三年後の明治25年には所沢織物市場は閉鎖せざるを得ませんでした。

明治29年:47歳


所沢織物市場は閉鎖となりましたが、翌明治26年、所沢の買継商、糸商8人が発起人となって所沢銀行を設立、小平次は頭取に就任しました。資金を前貸して集荷を確実にしようとしたものですが、明治30年代に所沢集荷圏が入間川沿いの機業地に本格的に浸透する基盤となりました。

このころより、粗製濫造が一層はなはだしくなり、信用失墜によって所沢織物業界の販路が狭まるなど危機を迎えました。ここに至って、小平次は私費を投じて専門家を呼び講習会を開催するなど、製品の品質管理の徹底を同業者に働きかけました。

明治29年には所沢織物買継商組合を設立するとともに、各商店の店員を集めて所沢買継商青年会を組織して、製品検査を徹底して取引させるとともに、不良生産者には取引停止の強攻策も辞さず、この結果、信用をとりもどすことに成功しました。

この時の苦い経験は、技術改良や確かな職人技に支えられたものだけが生き残るという所沢織物の遺伝子となったように思います。この遺伝子が約20年後の幻の織物といわれる「湖月」の誕生に結びついたに違いありません。

こののち、小平次は、青年所沢織物意匠競技会の開催、職工の技量の賞揚、有力機業家と共同で入間染工株式会社の創立など、技術の改良と品質管理に精力的に取り組みました。

明治36年:54歳

小平次は、明治36年、54才の油の乗り切った年に、各地に設立された織物の同業者組合をまとめ、武蔵織物同業組合(所沢織物同業組合の前身)と武蔵飛白同業組合を設立し、ともに初代組長に就任します。

武蔵織物同業者組合は、入間郡、比企郡、大里郡の8町72ヶ村に広がり、5000人の組合員を擁する大所帯でした。当初、川越に事務所を設置しましたが、明治40年、改組にあわせて所沢に事務所を移転し、名実ともに所沢市場に集散する織物(絹綿交織織物、綿織物)に関する同業者団体となりました。

明治30年代の後半は所沢織物の最盛期の一つで、所沢の町場には織物関係の商店が軒をつらね、にぎわっていました。このころには、所沢織物の向山商店は押しも押されもせぬ全国ブランドに躍進するに至り、全国各地で開催されていた博覧会や共進会には、織物審査員として招聘されることも度々となりました。

明治34年には、農商大臣から功労賞を授けられ、明治39年には勅定の緑綬褒章を賜っています。

小平次は大正3年に引退し、向山商店も閉めて、本店の建物全部を組合事務所として提供し、自らは別邸で悠悠自適の老後を養われましたが、大正十一年八月、偉大ななる足跡を業界に残してついに永眠、享年七十三歳でした。

所沢織物のブランのド確立に投じた自らの活動の幕を閉じました。


参考資料:「所沢織物誌」「ところざわ歴史物語」


織物の町:所沢  所沢織物物語  



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