所沢町場と飛行場
開設 2011.03.18

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 2011.3.19.



明治44年4月1日、日本初の飛行場が所沢の町に開設されました。
所沢飛行場と町場との関わりをご紹介します。

    


※戦後の町場と飛行場 敗戦:基地の町へ

昭和20年(1945)8月15日、日本はポッダム宣言を受諾し連合軍に降伏し、太平洋戦争が終結しました。

8月17日、閑院宮春仁王以下陸軍参謀は、南方軍部・第7方面軍・第10方面艦隊司令部に終戦趣旨伝達のための大本営飛行班の4式重爆撃機で所沢飛行場から出発、上海=広東=ツーラン=サイゴン=シンガポール=サイゴン=南京を経て24日に帰航しています。

8月24日以降はアメリカ軍の命令により一切の日本の飛行機の飛行が禁止され、所沢飛行場からの飛行は終焉を迎えました。

8月30日に日本占領連合軍総司令官ダグラス・マッカーサー元帥が厚木に到着、所沢の町も同年9月初旬から11月下旬にかけて、機関銃を付けたジープを先頭に六輪の大型トラックに乗った武装した米兵が、旧所沢陸軍整備学校跡に進駐してきました。米陸軍第5970部隊第13航空通信隊、米陸軍第97師団第1180技術工兵隊、771工兵隊及び第3013兵器隊が次々と進駐し所沢飛行場からキャンプ・トコロザワと変わり、第13航空通信隊が所在するほか、一切飛行機と無縁となりました。場内の建物のほとんどは補修、改修され使用されました。

この日から所沢の町は基地の町となりました。

10月上旬には所沢飛行場に残された多種多数の飛行機は破壊され、所沢陸軍病院も12月1日に国立所沢病院と改称されました。

町民は今まで見たことのない大きな自動車が街中を走り、女性のドラバーや黒人の姿を初めて見て驚き、治安や生活に不安と恐怖にかられながらも黙って見ていました。

ダイエー前の広小路(元検問所)には厳つい姿の兵隊がMPの白いヘルメットを被り立っていた。子供達は「ギブミー・チョコレート」と言い、見たことも食べたこともないお菓子を貰っている姿が見られました。

元町交差点にあった料亭・婦多佳美の百畳敷きの広間は米軍の命令で一日にして将校のダンスホールとなり、ダンサーも一般募集し連日盛況だったようです。

飛行場跡地から残された飛行物資らをリヤカーや自動車で運び出すやからも多くみられました。

終戦まで西新井町交差点 近くにあった 陸軍憲兵隊所沢分遺隊に米軍進駐とともに、米軍の求人に応じるための渉外労務管理事務所がおかれ、多くの市民が雇用されました。

米兵は旧軍の兵舎等に宿舎を構えたが、基地外にも部屋を借りるものも現れ、街には米軍相手の店が出来始め横文字の英語の看板らが多く見られる様になりました。

又、戦後の生活苦から米兵相手の街娼、通称・パンパン と呼ばれる女性が沢山出現し、街の風紀が乱れはじめてきました。

彼女らが住む部屋貸しの家も沢山誕生しています。

昭和27年(1952)の市の調査によると所沢に街娼(パンパン)が850人もいました。


町中には英文字の看板が多く見られ様になりました。

米兵や街娼がいることにより利益を得、経済的にも町が繁栄し、また、米兵相手の女性達がいるから町の婦女子の安全が保たれている、という考え方や、風俗、治安、子供への影響上好ましくない等、様々な意見もありましたが、いずれにしても、戦後の高度経済成長期に入り米軍の進駐により「基地の町」の様相を呈した所沢の町も商業都市へと活気がある町になっていったのです。

日本人従業員が所沢基地で一番多く就業していたのは昭和36年5月頃で4,777人で町の商店街もこの頃までは活気がありました。

昭和25年(1950)、朝鮮戦争が勃発し所沢基地は車両、兵器の修理、保管等の兵器廠となり、おびただしい数の露天格納兵器、自動車らで広い旧飛行場も一杯になりました。前線から血染めのジープやトラックが続々と修理に送られてきたようです。

町中を戦車や大きなトラックが行き交いはじめ、昭和28年から毎年開催されていた七夕祭りも中止、伝統の三八の市も姿を消してしまいました。

昭和30(1955)には「在日米陸軍所沢兵器廠」となり、自動車修理工場として三井系のビクターオート株式会社がキャンプ内に設立されました、(41年解散)

米軍基地内の兵器廠は野天に兵器を格納する為に雨水排水の必要性から狭山市の入間川河原から毎日多量の砂利を基地内に運んでいました。

このトラック輸送の為近隣の住民は毎日の砂塵に苦しめられていたのです。

昭和26年にはアメリカ軍は第3ゲート付近の西武鉄道からキャンプ内に引込線を作り、北所沢駅を設置(御幸町駅廃止)しました。昭和34年には少し北方に移設し新所沢駅になりました。

昭和28年(1953)には入間市のジョンソン基地(現:入間基地)への軍用道路(通称・行政道路)も開設されました。

敗戦直後、米軍基地として使用されなかった所沢飛行場跡地は開拓許可をめぐり種々の問題が起こりましたが最終的には、所沢町が69町歩、西武農業鉄道(西武鉄道)が23町歩を開墾することで決着しました。

21年(1946)5月には5つの開拓帰農組合が結成され、開墾作業は困難をきわめましたが、翌年にはほぼ作業をおえた。昭和26年(1951)、開拓に入ったうち数世帯が大字小手指の一部に入植、飛行場北部の大字中富、大字神米(かめ)(がね)、大字所沢が境を接する場所では、開拓地部分が独立して大字中新井となりました。

米軍基地は在日米陸軍医療廠が設置され、45年末には閉鎖、46年(1971)6月30日、一部通信基地を除きキャンプ・トコロザワの返還式が行われ「キャンプ・トコロザワ」時代は終わりました。

基地跡地には、国、県、市の官公庁舎や公園(航空記念公園)病院(防衛医科大学校付属病院)市立図書館、市立体育館、市立総合グランドなどの公共施設が建設されました。

昭和62年(1987)1月市役所新庁舎業務開始、5月航空公園駅が開設され、平成5年(1993)には所沢航空発祥記念館が開館しています。

平成23年(2011)、明治44年(1911)に日本最初の飛行場が開設され100年目をむかえました。

 

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