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所沢飛行場物語
開設 2006.05.01 |
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2011.3.17.



*陸軍少年飛行兵 陸軍士官学校分校

昭和7年、少年航空兵制度研究が教育部長・佐藤光信少将の手により行われ、昭和8年4月26日、所沢陸軍
飛行学校令が改正されて少年航空兵教育を加えることになり、
昭和9年(1934)2月1日、少年航空兵第1期生(操縦生徒70名・技術生徒100名計170名)が入校し、少年航空兵教育が開始されました。
生徒隊長:岩下新太郎大佐が就任。
次いで昭和10年2月1日には二期生操縦100名、技術160名が入校しました。
昭和11年11月校内から懸賞募集して所属飛行機標識を定めました。
同行の生徒、岡田秀夫の考案で所沢機の全機の方向舵の上部には緋色の日の丸の中に「トコ」を図案化した通称「所飛マーク」が記されました。
陸軍航空の中心であった所沢陸軍飛行学校は軍備の拡張、教育の多様化等の必要から、手狭となり、操縦教育と機関教育を分離する必要から昭和10年7月29日、所沢飛行学校は廃止されて、機関教育を引き継ぎ陸軍航空技術学校(昭和10年機関科教育を分離)となり、操縦教育は熊谷陸軍飛行学校(昭和10年8月1日、少年航空兵操縦生徒教育を分離)に移り12月1日より実施されました。従って一期生操縦のみは所沢陸軍飛行学校を卒業し、二機操縦は熊谷陸軍飛行学校に移転、一期技術及び二期技術は在校のまま陸軍航空技術学校に移籍しました。
昭和12年9月26日に所沢飛行学校廃校式を挙行し9月30日に廃止され、その14年間(陸軍航空学校時代を含み19年間)の歴史の幕を閉じました。陸軍航空学校創立以来この学校が養成した航空要員は、操縦(学生60期、他11期、生徒1期、委託練習生17期)・機関(学生28期、他10期)・特種(学生44期、他7期、下士官候補者6期)の多種大量に及んでいます。この間、分立していった部隊は陸軍航空本部技術部(大正14年5月1日研究部を改編)、そして教育を継承して、昭和12年10月1日に東京陸軍航空学校(少年航空兵生徒隊教育隊を継承)陸軍士官学校分校(士官候補生・少尉候補者教育を継承)が創立されました。
所沢飛行学校に仮校舎を設け、既存の陸軍施設が用いられ、所澤飛行学校の人員、施設、機材を骨幹として所沢陸軍士官学校分校が開校、木下敏少将を長とし、将校・各部将校・陸軍教授・技術123名、准士官19名、下士官・判任文官75名、兵12名、計229名をもって、士官候補生380名、少尉候補生180名を教育する編成でした。
9月30日、第50期航空兵生徒は生徒隊長・北島卓美大佐(24期)の軍装検査を受け、離校式に臨み、全校職員、在校生の見送りの中を、執銃、軍装の姿で隊列を整え、日章旗の翻る市ヶ谷の陸軍士官学校東表門を出ました。58名の航空生徒は、新しく分校教育隊中隊長になった猿渡篤孝大尉を先頭に、大平・田中両区隊長の指揮のもとに進軍符を吹奏する喇叭隊と共に市ヶ谷台を後にしました。折から降り出した冷雨の中を「我こそは空軍建設の尖兵」という自負心に胸躍らせながら新宿まで行進を続けました。新宿から所沢駅まで自動車行軍を終えた中隊は,あらためて隊列を組み、家ごとに日の丸を掲げて歓迎する民衆の中を猿渡中隊長を先頭に、顎紐をかけた軍帽に、抜刀した大平・田中両中尉が秋雨の降る中を緊張した面持ちで正々堂々と行進し、木下敏分校長(20期)以下全職員の出迎える木の香も新しい「陸軍士官学校分校」の標札をかかげる校門を入りました。(陸軍少年飛行兵史:少飛会より)
次いで12月10日には51期93名、翌13年2月1日には52期129名が入校しました。そして同年6月末、操縦教育を終わった第50期生が卒業しました。昭和13年6月豊岡に陸軍士官学校新校舎(修武台)ができ、分校は逐次移転して行きました。尚、分校設立とともに、所沢陸軍飛行学校は廃止になりました。
飛行練習は広大な空間を必要とするために豊岡の本校以外にも所沢、狭山(入間市元狭山)、高萩(日高市)坂戸、館林の陸軍飛行場が練習地として使用された。狭山、高萩、坂戸、館林には分教所も設置された。
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