2008.12.11~2011.10.22

新義真言宗辰爾山仏蔵院勝楽寺の名を取った勝楽寺村及び堀口村は東京の水がめとして造られた山口貯水池の湖底に没しました。

現在の堤防の南側からの展望
仏蔵院 仏蔵院裏からの展望
七社神社前の池と小山商店 堀口の清照寺と星見堂
七社神社手前 右に行くと右に行くと北入集落 中笠集落
大笠から大ヌカリを通って武蔵村山・横田に通ずる道 機織風景 主に所沢飛白を製織していました。

現在観光地となっている狭山湖(山口貯水池)の地域は、以前は山口村大字勝楽寺村と大字上山口といい、勝楽寺は、刈谷戸、神門、北入、中笠と大笠、上山口の堀口と、六つの集落により構成されていました。

狭山丘陵の谷の奥まった所に広がり、自然に満ち、所沢から青梅、八王子へ通じる道路が貫いていました。


明治時代、所沢の織物が隆盛をみた頃はこの地域の村人達が中心となり「所沢絣:飛白」を生産していました。
しかしこの地域は昭和7年、増え続ける東京市民の水がめとして建設された貯水池の湖底に没してしまいました。湖底に沈むことになり、そこに住む人々は移転を余儀なくされました。
移転した数は282戸、家族全体の人数は1720余名、大部分の190戸が農業で、次が織物業20戸でした。 所沢絣の衰退の要因の一つにあげられます。


博史の昭和青春グラフィティー


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