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2011.4.16.




古代から中世へ

所沢市は武蔵野台地のほぼ中央部にあり、武蔵野台地には不老川、柳瀬川、黒目川などのほか、その支流が丘陵地の中を流れており、人々は川で魚介類を獲ったり、原野で木の実を採取して暮らしていたようです。

所沢の地にいつ頃から人々が住み始めたかは明らかではありませんが、狭山丘陵の北及び北東部にある三ヶ島、小手指、山口,吾妻とその東に続く松井、柳瀬地区の柳瀬川や東川沿岸の台地から縄文式文化時代、弥生式文化時代の土器が数多く発見され、縄文中期のものが多く、時には前期の土器が出土しているので、少なくとも5千年以前から人々が住み、小さな集落をつくっていたと考えられます。三ヶ島地区の砂川遺跡からは、一万五千年前から二万年前のものといわれる、先土器時代の石器が数多く出土しています。

この発掘調査は昭和41年に行われたもので、23点のナイフ型の石器をはじめ、石器を造った時のものと考えられる破片も出土しています。

また、この石器に使われた黒曜石は、長野県の和田峠で出土したものと考えられており、すでにこの当時から遠く離れた地域との間で、物流の交易が行われていたことがうかがわれます。

縄文時代に入ると、人々は生活道具に石器と共に土器を用いるようになり、竪穴式住居が造られ、小規模な集落も形成されました。

昭和42年の発掘調査では山口地区の膳棚遺跡で縄文時代中期のものと思われる55軒の住居跡と80余りの土杭が発見されています。このことから、多くの人々が暮らしていたことがうかがえます。
所沢地方の丘陵地では
生活に必要な水が確保でき、動物や植物が採取できたので、古代の人々にとって理想的な居住地だったと思われます。

このほかにも、縄文時代の遺跡として、市内東部の和田遺跡や西部のお伊勢山遺跡など120か所以上の多くの遺跡が存在しています。
弥生時代の遺跡は狭山丘陵の北側の裾部に限定して認められています。
この丘陵の北側(北野・山口・三ヶ島)には砂川、東川、六ッや川などの湧水群が丘陵裾部に沿いながら浸食し、支谷が多く、谷戸地が発達し、高燥な所沢のなかでも特に水利に恵まれた地域で、大陸から稲作が伝わると、水田耕作が行われ集落を営むようになりました。

昭和52年に市立南陵中学校の校庭を中心に、70軒を超える弥生時代の竪穴住居跡が発掘されています。
この地域は奈良・平安時代の竪穴住居跡も多数検出され、この地域の遺跡は東の上遺跡と呼称されています。
その後日向遺跡(三ヶ島)・台遺跡(堀之内)・馬先遺跡(北野)でも、弥生時代の竪穴住居と遺物(土器)が発掘されています。また、宮前遺跡(北野)からは方形周溝墓が検出されています。
七世紀に中央集権国家をめざす動きが強まり、大化の改新(645年)以降は律・令という法体系のもとで全国を統治する「律・令制」が急速に整備され東国の草深い市域も律令制に組み入れられていきました。

中央集権国家の重要課題である中央と地方との緊密な連絡を図るため、東海道・東山道など七本の駅路(七道)が全国に建設されました。各道は国―郡―里(郷)の行政単位に区分され、国衙(国府)・郡衙を拠点に地方統治が行われました。
武蔵国の国府(役所)は国域南部の多磨郡(多摩郡)現在の東京都府中市に置かれました。東山道武蔵路・入間路(府中―国分寺―所沢―入間川―越生・毛呂山東方―越生―寄居)が所沢市域を通り各地と国府を結ぶ重要な道が整備されました。

東の上遺跡からは東山道武蔵路と推定される幅12メートルの直線道路が検出されています。
この道路の開通時期と集落の発生時期はほぼ同時期であることから、両者は密接な関係にあるものと見られています。
墨書土器、朱墨付着硯、漆紙文書、炭化米、帯金具などの官衙遺跡に多く見られる物や、鉄製馬具、焼印、馬の歯など馬に関する物など、一般集落では出土しない遺物が多数出土しています。馬に関する遺物が多く検出されていることから、早馬や公文書の逓送、公用旅行者に対する馬の継立てや、宿泊・休憩の便を供するのが主な役割とした駅家の一つと推定されています。武蔵国衙や武蔵国分寺の造営・天平13年(741)に大量に使用された瓦や日常容器として需要が増した須恵器の一大生産地であった埼玉北西部や南西部などに分布していた窯跡群から生産された製品を運搬した経済道路・流通道路としても利用されていたことも考えられます。
いずれにしても、東の上遺跡の道路は、中央と地方を結ぶ重要な交通路として、計画的に建設された官道で、当時は相当の往来があつたと思われます。

交通量が多くなると、当然、行路の困難に伴うさまざまな障害が発生しました。続日本後記天長十年五月(八八三年)の条に「武蔵国は広く、通行するのに難儀が多く、公用や私用で旅行する人たちの中に、病気や飢えで苦しむことが多い。そこで救済する為に多摩郡と入間郡の郡界に「悲田処」が設置された。」と記されています。

律令制の衰退にともない、貴族や神社は経済的な基盤として荘園を各地に所有しました。

一方在所の豪族は未開発地を積極的に開発し、有力者に寄進してその荘園の役人に任命されることで、開発した土地を事実上の私領としました。このような豪族は領地の自衛のために武装し、やがて武士団として成長、武士と呼ばれる層が台頭します。村山党はそうした武士団のひとつで、武蔵七党に数えられ、狭山丘陵南部の多摩郡村山郷を本拠地(本貫の地)としていました。村山党の祖である平頼任は垣武平氏の流れをくむ野与基永の弟で、任期が終わると村山の地に館を造って住み、平の姓を村山に改め、村山貫主とも呼ばれて大きな力を持ちました。そしてその一族は各地に分かれて繁栄し、大井、宮寺、山口、金子、荒波多、久米、仙波、難波田の諸氏となりました。

そしてその孫の家継が山口に館を構え山口氏となり、その子孫がそれぞれ荒幡氏・久米氏などになりました。山口氏の館跡が山口城と呼ばれている所です。狭山湖湖畔にあつた根古屋城は山口城の支城として築かれたといわれています。

鎌倉時代になり、政治の中心が鎌倉の地へと移ると、東山道武蔵路は府中から鎌倉へ続くようになり、鎌倉街道へと変わりました。

鎌倉街道上道

鎌倉街道は幕府が鎌倉に開かれた関係で、御家人たちが「いざ鎌倉」という時に、鎌倉へ参集するのに用いられた街道です。武蔵と上野の両国府を結ぶ街道として開通していた「国府への道」武蔵路は中世になると「鎌倉道」として重要な道になってきました。

鎌倉街道は「上道(あずさみち)」(武蔵路)中道(奥州大路)「下道」などといわれていました。

これらの街道は鎌倉を起点に陸奥・信濃・越後等の各地へ向かう主要街道でした。

野老澤・所沢は「上道・武蔵路・入間路」の沿道にあったので、宿場として発達しますが、反面ここを往来する軍旅が多く、しばしば戦場となることがありました。小手指ヶ原古戦場跡は元弘三年(1333)新田義貞が鎌倉を攻略したときを初めとして、南北朝時代に数回にわたって戦場となりました。

戦国時代になると、小田原(神奈川県・小田原市)が関東の政治の中心となり、この街道は小田原と武蔵・上野の北条家分国を結ぶ主要街道として存続しました。特に、この時代は物資の輸送が盛んとなり、中世を通じで人馬の往来が激しかったので、文人や墨客、歌人もこの街道を利用して地方と行き来していました。その意味でこの街道は政治、軍事、経済、文化の各領域に渡って重要な機能を果たしてきたといえます。

慶長十五年(1610)十一月、駿府にあった大御所徳川家康が関東で鷹狩を実施した時は、小田原から直接川越に(おもむ)いており。おそらく鎌倉街道を通って北上し、所沢を通過したと思われます。

鎌倉街道上道は近世初頭まで交通路として利用されてきましたが、江戸時代になると中山道をはじめとして新しい街道が整備されると、一部を除いて廃道になっていきました。

入間路といわれる鎌倉街道上道がある東京都東村山市諏訪町から所沢市の久米に入るのに、三本の支道が伝承としてあります。小手指道、堀兼道、羽根倉道です。

小手指道には新田義貞が激戦を交わした有名な小手指古戦場があります。古戦場碑に近い白旗塚は義貞が源氏の白旗を立てた場所と言い、その北の誓詞(せいしが)(はし)は倒幕の誓詞を取った場所と言い、久米の長久寺の南の柳瀬川にかかる勢揃(せいぞろい)(はし)は、新田軍勢揃いの場所と言い、八国山の将軍塚にも義貞の座所であったという伝承が残されています。

市内の実蔵院の脇を通り、北上すると新光寺の門前に出ます。この寺院は聖護院(しょうごいん)門跡(もんぜき)道興准(どうこうじゅ)(ごう)が文明十八年(1486)(とこ)()(さわ)(所沢)に遊覧した時、観音寺(新光寺)で福泉という山伏が酒を出し、薯蕷(しょよ)を肴にだしたのを見て、

野遊のさかなに山のいもそへてほりもとめたる()(ころ)(さわ)かな

と詠んだことが、彼の紀行文「廻国雑記」に記されています。この時にはじめて「野老澤・ところさわ」の文字がでてきます。


近世のはじまり


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