2008.12.52010.4.29~2011.7.16




埼玉県を含む武蔵国には、朝鮮半島からの渡来人により、高度な織物技術がもたらされ、
入間地方は古くから織物の産地として知られていました。
関東の織物産地としては、北に結城・足利・桐生・伊勢崎、西に秩父・飯能・所沢・青梅・八王子などがあります。
埼玉県の絹・綿織物は江戸時代初期からすでに生産されていました。中期以降には生産量と地域が拡大していきました。
県南部から東部の低地から台地では「岩槻木綿」「青縞」らの「綿織物地帯」、西部から北部の山間地から丘陵・台地にかけては
「秩父絹」に代表される「絹織物地帯」、県南西部の入間地方の台地の村々では「太織り」(絹)・「白木綿」・「縞木綿」(木綿)
「青梅縞」(絹綿交織)などの多種類の織物が平行して作られた「綿・絹織物混在地帯」に大別されます。


織物は、入間地方の農家の副業として生産されるようになり、入間地方から県南部にかけての一帯は縞織物の生産が盛んで、
一説では鎌倉時代には商品化し、室町時代の嘉吉元年(1441年)に青梅の織物市場で青梅縞として地縞を取引したのが、
最初であろうといわれています。
江戸時代に入るとたて糸に綿、よこ糸に絹糸を使った絹綿交織物として織られた青梅縞が隆盛を極め、青梅宿近郊の農村部で織られ、
入間郡では元加治村がその中心地だったと言われいます。
江戸時代中期には、農家が市で糸を購入して紺屋で糸を染め、それで織物を作り、仲買人が買い取って市に出す
「坪買い」という生産形態が取られました。

明治から昭和初期にかけて、入間地方は織物を中心に養蚕や製糸、染色そして撚糸が大変盛んになりました。

明治時代初期、埼玉県は全国有数の綿織物になっていましたが、中期以降は絹綿交織物と絹織物の生産が増えていきました。

入間地方では地機(じばた)から作業性のよい高機(たかはた)への移行が県内でも早く進み、多くの織機台数と職工人数も多くいましたが、
経営形態は工場がまだ少なく、小規模な家内制工業が中心でした。
農家は養蚕や農作物の収入だけでは不十分でしたので、製茶や「賃機」(ちんばた)が副業として必要でした。
「賃機」は機屋から渡された原料の糸を織り上げて織り賃をもらうもので、農閑期には農家の女性達の多くが従事していました。
当時、農家の女性の副業として「斜子織」(ななこおり)をはじめ「瓦斯糸入縞」「交織夜具地」「木綿縞」などが織られていました。
また、このような「坪」(外にある機場)へ出す「出機」(でばた)の他、機屋が数人の「織り子」を雇って製織させる
「内機」(うちはた)もありました。
こうした生産形態は大正時代に入り力織機を使った生産が増えるまで主流でした。

大正時代に入ると工場で力織機を使った多くの機屋が誕生し、織物の生産高も増大しました。製品も衣服だけではなく、
夜具地や座布団地、風呂敷地など多種にわたり、近代産業として確立していきました。
第一次世界大戦後、織物業界の構造的変革により機械化、工場生産が進展しましたが、経済不況に寄り相次ぐ休業に見舞われ、
アジア太平洋戦争の勃発後も産業統制強化により、多くの織物業者が転廃業、または軍需工場となることを余儀なくされました。
戦後、小幅織物(和服地)の需要が減少したことから、織物業界は広幅の綿織物(シーツ・タオル地など)中心へ転換しました。
絹織物では飯能を中心に「飯能大島紬」や「裏絹」などの生産が続けらています。

江戸時代中期は市場が川越、所沢、扇町屋、飯能などにあり、原糸の糸や染料、織物製品の取引が盛んに行われいました。
弘化元年(1844年)になると、織物の取引の中心地が江戸に近い所沢の市場に移り、入間、川越、飯能、所沢を含めた入間地方で織られた織物は、いつしか「所沢織物」と呼ばれるようになりました。

安政6年(1859年)の開国により、江戸末期の文久年間(1861年~1863年)にはイギリスの機械で紡いだ
安くて良質の輸入綿糸(舶来唐糸)の導入により双子縞の生産が開始され、青梅縞に代わって入間郡から県南地方の一帯は
双子縞の生産地になりました。
双子縞は経糸・緯糸ともに細綿糸2本を引き揃えにした縞織物で、明治時代には隆盛を極め、入間市の野田双子、
川越市の川越唐桟、蕨市の双子縞が生まれました。

唐桟織(とうざんおり)はインドのマドラス地方のサントメ島からオランダ船により渡ってきた綿織物と言われ、
江戸時代武士以外の絹織物の禁止により、裕福な町人社会に流行し、細糸で織った経縞の織物として、丈夫で絹のような光沢、
品位、渋みなどが珍重されました。江戸末期、開国と同時に英国より輸入された唐糸(外国産の糸)を手に入れた正田屋(中島)久平:川越の織屋が、
元加治村野田の中沢・築地某と工夫して、抱き矢筈(やはず)を織ったのがいわゆる双子織で、地名を冠して野田双子織と称し、
絹織物のような光沢があり、手触りでした。
川越の商人はこれを川越唐桟として江戸に売り名声を博しました。
明治30年頃には隆盛期に達し、年産二十万反も製織し、品質も向上し、使用糸は百番手を用いるに至ったものの、
日清戦争後の手織から力織機への転換に遅れをとり、その上粗製濫造に走ったために衰退することとなりました。
その後、昭和55年入間市仏子在住の「川唐」織元の西村芳明夫妻の力織機により双子織が復元されましたが、
現在は入間市博物館内の野田双子織研究会の皆さんが双子織の素晴らしさを継承しています。

こうした縞織物生産地にあって、所沢市西部から東京都旧多摩郡にかかる狭山丘陵地域では双子縞隆盛期でも
絣が生産の中心として織られていました。
狭山丘陵で絣が織り始められたのは文化年間で発祥地は旧多摩郡の村山地方と伝えられています。
ゆえに、その絣は「村山絣」と呼ばれていました。
村山地方で絣が台頭してきた江戸末期には秩父と江戸を結ぶ江戸道の宿場町として栄えた所沢は
三と八のつく日に「三・八の市」と称する六斎市もたち、織物の取引も盛んになり綿織物取引の市場として
青梅宿が古くから知られていますしたが、幕末にだされた「市の番付表」によれば、
青梅市場が前頭45枚目に対して所沢市場は30枚目ではるかに上位につけています。

江戸末期は青梅縞に代わって村山絣や双子縞が台頭してきた時代でもあり、織物の変化と時を同じくして、
市場も江戸に近い地の利に勝る所沢が青梅をしのぐまでになったのでした。
双子縞や村山絣は所沢市場に集められ、ここで取引されて江戸へ運ばれて行きました。
「村山絣」も所沢市場で取引されたことで集散地の名をとり「所沢絣」として世にしられる様になりました。
明治維新前には村山地方で織り始められた絣は所沢市域の山口村、吾妻村に伝えられ、
絣製作に携わる農家が次々と出現し、始まりは農家の副業でしたが、明治になると機屋や紺屋を生業とする家が増えていきました。

明治時代にはいると絣の生産は上昇し、狭山丘陵地域からさらに東南部~東部~東北部へとその範囲は都下の田無市、小金井市、
三鷹市へと絣の生産は拡大されていきました。

所沢絣は明治30年代には中柄~大柄を主流とした紺地に白の幾何学模様が特徴とする事から「飛白」の文字があてるようになり、
「所沢飛白」というブランドが誕生しました。

(所沢飛白の商標が正式に使用された年は不明ですが、
明治36年には武藏機業改良組合を武藏飛白同業組合と改めていまので、
この年から商標が使われたと推測されています。)

明治14年第2回内国勧業博覧会出品目録には飛白織と記されている。


所沢飛白の最盛期は明治38年~39年で、
年間120万反の生産量を誇り、東北・北陸方面を中心に全国へと出荷されていきました。

所沢飛白も明治末期には陰りが見え始め、大正時代にはいると漸次 売上げは下降線をたどり、昭和初期には金融恐慌のあおりを受けて大暴落に陥りました。
さらに昭和4~5年には絣の主産地だった山口村の勝楽寺村と上山口の一部が山口貯水池(狭山湖)建設に伴い湖底に沈むことになり、
そこに住む人々は移住を余儀なくされました。
この移転を機に多くの機屋が絣の生産に見切りをつけ、山口村では、昭和8~9年を最後に絣の生産がうち切られてしまいました。
所沢市内にあつた大きな機屋も昭和10年前後には絣の生産を中止してしまいました。
大正時代に入ると、人々の生活水準も向上し需要も綿織物から絹指向となり「村山大島」などの絹織物も盛んに織られるようになりました。

大正時代に作られた綿織物に、入間地域を中心に生産された
「湖月縮」があります。
「湖月縮」は入間、所沢、飯能の織物業者で作った「所沢織物同業組合」青年部の若者達により生み出されました。
これは、極細の木綿糸で織り上げた夏物の着物地で、東京、京阪神の百貨店等でも販売され、女性達に高い人気を得ました。
大正後期から昭和期にかけて所沢の織物業界のリード役として高級綿着尺地としての名声を大いに高めたのが「湖月会」でした。











湖月会は業界有力の所沢の「平岡徳次郎商店」が夏物に関する新製品の開発と販促進のために、大正6年(1917)に設けた組織です。
湖月会は有力で技術力を備えた10名程度の専属的な機屋を擁するいわば試作研究を行なう一種のプロダクション・チームとして機能しました。
時代により多少変動がありますが、主に旧元加治村(入間市)や旧入間川町(狭山市)、旧飯能町などの入間川河岸周辺の有力機業家が結集し、
当時の県立工業学校(旧川越染色学校・現川越工業高等学校)卒業などの経歴に準ずる学識と技術力を兼備していることが会員のなる不可欠な条件でした。

よその産地にマネされるのを防ぐため、湖月縮の生産者はトラストを作り、すべてを企業秘密として口伝していました。
ですから、どのような加工法で独特の縮みを作り出していたのか、はっきりとは分かりません。
ただ、百番といわれる細い木綿糸をよりあわせ、経糸には右より三本と左より三本を交互に、
また緯糸も右より用と左より用の二つの杼を使用して織り上げたのは確かのようです。

このため、湖月縮は絣織りの十倍も織り上げる日数がかかったと思われます。
さらに織り上げた反物を、蒸気で蒸し、熱いうちに手でもんで微妙な縮みを作り出しました。

また、原糸は特に繊維の長い内地綿を買い付け、染料もドイツ製の草木染め用のものを使用したようです。
「所沢織物誌」(所沢織物同業組合・1928年)も『「湖月会」は会員間に一種のトラストとも言うべき経済的連繋を有し
強固なる結束とよき統率のもとに、所沢織物の最高標準を示す優秀品を提供し、特に夏物における所沢織物の進歩は同会に
負う処甚大なるものがある』と記しています。

こうして「湖月会」は経糸に八十番手の瓦斯糸を用い、緯糸に玉糸を織り込む「湖月」や「明石湖月」といった
絹綿交織(けんめんまざりおり)を応用した夏物の「新銘仙」を次々と市場に送り出し、特に京都や大阪の有力な集散地問屋と特約関係を結んで、
主に関西方面に販路を広げて行きました。

湖月会では、さまざまな宣伝活動を華やかに繰り広げて、これらの製品を全国に売るために当時のファッション雑誌「婦女界」に毎回広告をだすなど湖月縮・湖月明石など所沢織物の売り込みをはかっていました。

当時、全国各地の織物小唄の作曲作詞者として活躍中の中山晋平・永井白湄コンビに「所沢小唄」の作詞・作曲を依頼し、人気絶頂の二三吉、所沢芸妓連の歌でレコーディングしたり、竹久夢二に「所沢小唄」を書き入れた絵葉書制作を依頼したり、人気女優を起用してポスターを制作し、湖月縮などの所沢織物を宣伝しました。
また、女性誌“婦女界”に“誌上陳列会”を掲載し、一種の通信販売で販路を広げるなど努力を重ねました。
ちなみに所沢小唄を作詞した永井湄白は、本名豊太郎。上野松坂屋衣装部長として、湖月縮の開発に協力・助言を惜しまなかったひとです。



故郷所沢の思い出、情報ら何でも書き込んで下さい。
写真もOKです。


ご意見、ご感想をお聞かせ下さい。

【著作権をお持ちの方へ】
 このページは、個人の趣味で非営利で作成しております。
もし不都合がありましたら、大変お手数ですがメールにて
連絡をお願いします。
このホームペイジに使用している画像データー等の著作権は、全てそれぞれの原著者に帰属します。
商用目的での二次的利用などは制限されています。ご注意下さい。

File not found.