2007.3.01




埼玉県は人形作りの盛んなところで、岩槻・鴻巣など全国的に知られていますが、所沢もこれらに次いで雛人形の産地として知られています。
所沢での雛人形の歴史は古く、今から160年ほど前の天保の時代に遡るようです。
当初は農業のかたわら、副業として人形作りがおこなわれていたようですが、現在は専業化され立派な伝統工芸として良質な雛人形が生み出されています。
古くは東新井町の倉片人形店の敷地内に祀られている雛稲荷と呼ばれる石の祠には天保十年(1839年)の文字があり、創業者の吉兵衛さんが建てたと伝えられています。

市内元町の東屋人形店には四代前の肥沼長兵衛さんがいます。
長兵衛さんの人形は、精緻で優雅なことで知られ、『所沢に長兵衛あり』と界隈にその名が知れわたっていました。
名は、川越藩主松平周防守康英にまでとどき、人形献上のはこびとなり、川越藩主から賜った『東玉齋』の文字が記された額が現存しています。
その額には嘉永二年(1849年)創業と書かれています。
明治三十五年の「埼玉県営業便覧」の雛関係職として所沢の町では山崎萬吉(際物商)二上忠蔵(雛玩具製造問屋)の二人があげられています。
「所沢人形」の 歴史において重要な役割を果たしたのが、今日でも雛人形関係者によって語られる二上忠蔵さんの『雛忠』商店の躍進でした。


『雛 忠』

多くの弟子を育てて独立させ、「所沢人形」の名前を全国的にした中心人物が二上忠蔵
『雛忠』でした。
現存する大正から昭和にかけての「お得意様名簿」によれば、取引先は133店舗にのぼり、東京、神奈川方面が6割を占めるものの各都道府県に散在しており、北は北海道から南は九州までの範囲に広がっていた様です。
二上家が所沢に来たのは忠蔵さんの父(安左衛門)が幕末に和歌山から来て定住し、近隣の豊岡(入間市)や川越で修業をつんだ様です。忠蔵さんも豊岡で修業しています。
したがって、雛忠創業以前にも所沢周辺では雛人形の製作が行われていた様です。

二上忠蔵さんは雛人形の製造販売のほかに晩年(明治三十六年)鯉幟の染場だった場所に「雛沢座」という歌舞伎劇場を創設しましたが、
芝居小屋の経営には素人であったために、本業の経営をも苦しくしてしまった様です。
現在の雛人形の職人さんの多くは「雛忠」の弟子から修業した、いわば孫弟子にあたる人達を含めて雛忠系統の方達が多いようです。


所沢の雛節供の風習



三月三日の雛節供は女の節供といわれ、雛人形を節供前に座敷に飾ります。
餅をつき、菱餅や草餅にして三日の朝に供えます。
女の子の初節供には、嫁の実家や親戚から雛人形が贈られる風習があいます。
実家からは内裏雛が、親戚からは五人囃子などが贈られます。
このお返しに嫁は草餅やはまぐりを持って、この日に里帰りをし一泊して来ます。
また、初節供には神明様にお参りにいきます。
雛祭りが終わり、いつまでも飾っておくと「縁が遠くなる」といい、娘の婚期が遅れることを心配し、三月三日を過ぎるとすぐにしまう風習があります。
雛人形に関する禁忌として「お雛様はハンビ(奇数の日)にだして、チョウビ(偶数の日にしまえ」
「お雛様は十二日目にしまえ」といわれています。
雛祭りが終わってから十二日間は人形を飾っておき、そうすれば魔除けになるということもあった様です。
所沢市内でも地域により風習は少し違いがありますが、最近は風習にこだわらずお雛祭りを楽しんでいる家族が多いのでは・・

参考資料:所沢市史「民俗」


裃人形(かみしもにんぎょう)裃雛(かみしもびな)

幕末に埼玉県・岩槻の久保宿に住んでいた橋本重兵衛が考案した人形でカミシモ人形と呼ばれています。この人形は岩槻周辺から埼玉全域、群馬にかけて流行しました。
所沢でも昭和20年頃(戦前)まで扱っていた様です。
内裏雛と異なるのは頭髪は結わずにオカッパや稚児の髪型にしたままで、裃を着て正座した人形です。

手足なども簡素に作られているため値段も内裏雛に比べ五分の一程度であった様です。内裏雛:殿様・奥様を一段目に飾り、二段目以降にはいただいただけの人形を飾った様です。
また、農家では農耕や蚕の作神様にあげるという事で、女児のいない家でも買ってきて飾った様です。時期が過ぎると神棚にあげておく家も多かったようです。


(写真で紹介しているのは飯能の商家に保存してあった裃人形です。)






市立三ヶ島小学校の市松人形と青い目の人形

「青い目の人形」とは,昭和2年(1927年)に親日家の宣教師シドニー・ルイス・ギューリック博士と渋沢栄一によって「日米友好のために働きかけ,アメリカ合衆国から日本全国の幼稚園・小学校などに約12700体が贈られた人形のことをいいます。 それぞれの人形には名前がつけられパスポートと一緒に贈られ配られました。

また,渋沢栄一を中心として答礼人形と呼ばれる振袖姿の市松人形58体がアメリカに贈られました。

しかし,当時は「日米親善の象徴」だった人形が,太平洋戦争のころには「敵国の人形」として,かなりの数が処分されてしまいました。現存数は約300体ほどしか確認されていません。また、アメリカに贈られた「答礼人形」も43体がアメリカ各地で保存されているのが確認されています。
埼玉県内には178体が贈られましたが、戦時中に敵国の人形であることを理由に、ほとんどが壊されたり焼かれたりしまい、現在では12体が残されているだけになりました。

1986年(昭和61年)、市内の市立三ヶ島小学校の博物館と社会科資料室を整理していてこの貴重な「青い目の人形・ミルドレッド・ルチェールちゃん」が発見されました。
箱の中から英文のパスポートと「人形を迎える歌」の楽譜が一緒に出てきました。



三ヶ島小学校では1988年(昭和63年)から毎年「ひなまつり集会」を行い、先生から人形の由来を聞き、「人形を迎える歌」を唄ってお祝いをしています。
現在も青い目の人形は小学校の玄関に大切に飾られ、子供達を見守っています。


参考資料:埼玉県平和資料館
    三ヶ島小学校HP











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