2007.10.182011.7.16


昭和:平成時代の所沢の町

 
軍都:基地のまち:高層ビルのまち
 

昭和は昭和2年(1927)3月に始まった金融恐慌と共にあけました。
織物業も昭和4年には所沢織物組合で42パーセント、所沢飛白組合で38パーセントもの織物業者が休業に追い込まれました。

景気対策として公共事業が行われ、
「救済事業」と言う名目で種々の土木工事が行なわれました。

道路拡張、町役場建設と峰の坂を緩やかにする工事等が行われました。



薬王寺境内時代
昭和8年に浦町の薬王寺にあった町役場を町一番の豪商(天保年間からの織物問屋)向山小平次の別荘跡地(現在の旧市庁舎地)に
新築、バルコニーのついたモダンな町役場が誕生しました。
  
昭和4年に宮本町の峰の坂も緩やかにする大工事が行なわれました。
それまでの峰の坂は昔の自然の地形に少し手を加えたもので、したがって、
勾配もきつく、馬方や手車引き、牛車など「荷」を運ぶ人達にとっては難所でした。
新光寺の入口に流れる東川は昔はお寺の北側を迂回して流れていましたが
川幅も狭く、底も浅かったので大雨が降るとたちまち周辺の家々に浸水するので
昭和7年に「救済事業」の一環としてお寺の南側に真っ直ぐ流れる様に工事が行なわれました。

明治の終わり頃、新光寺の裏に八王子の清水牧場の分店・内田牧場があり、100頭近い牛がおり、所沢市内に配達していたそうです。牧場は昭和19年に閉鎖されまた。
金山町の通りが広げられたのも、この頃でした。金山町の通りも昔は狭く向かいの家の中が見えたそうです。
 
     
所沢飛行場はいうまでもなく軍事施設でしたので、昭和6年(1931)の満州事変以降の軍国の時代には拡張につぐ拡張が行われました。
沢も軍国化の波に呑まれ飛行演習などは頻繁に実施され、所沢町は「軍都」として多くの兵隊さんで賑わっていました。


所沢小学校の南東地区(南原ミナミッパラ)には軍の将校さんが住む将校住宅が沢山建てられました。
洋風の応接間がついた当時としてはモダンな住宅でした。

飛行場の開設に伴い飛行場に通う人達のための駅がありました.
当時は飛行学校華やかなりし頃で大勢の技術者、雇員や兵隊、将校などが乗降していました。

            東所沢駅

武蔵野鉄道(現・西武池袋線)では所沢駅から「上り」秋津方面に400メートル位行った所にあった「松井村駅」
(昭和13年2月19日開設)を「所沢飛行場駅」と改名(昭和16年3月1日)後に「東所沢駅」と改名しました。
駅から鉄瓶横町(現在、新井町の能面美術館前)を通って飛行場へと通勤していました。
当時はこの辺を茨原(ばらあら)と呼んでいました。現在の旭町です。


御幸町駅
 
川越鉄道(現・西武新宿線)では昭和16年6月21日に「所沢飛行場前駅」が飛行機新道旭橋を渡った所
(所沢駅より下り入曽方面に約400メートル行ったところ)に新設されました。
駅舎は長い石段を登った所にありました。

後に「御幸町駅」と改名され、戦後飛行学校および 飛行場は米軍の基地になり、ここで働く進駐軍の要員やGI(兵隊)達が毎日多数利用していました。その後、広大な基地内にも新しく鉄道が引かれ膨大な軍事物資を貨物列車で輸送する為に広い原っぱ、雑木林の中に新しく駅を作ることになりました。駅名「北所沢駅」として発足し後の「新所沢駅」になり、このために「御幸町駅」は廃止になりました。

       陸軍病院
 
昭和16年には陸軍病院→国立所沢病院(現在:医療センター)が開設されました。
ここに行く道路がファルマン交差点から新設されました。
急病、負傷した軍人を急いで搬送する為に旧道(引又道)では踏切が障害になるので
軍の命令により陸橋が作られたといわれています。
この道路に架かっている陸橋(七世橋)はかっては「七生橋」と言い楠木正成の「七生報国」「七たび人と生まれて、逆賊を滅ぼし、国に報いん」から付けられた名前です。この七世橋の道が出来たために旭町は南北に分断され、町の様子も大きく変わってしまいました。
「所沢の火事は泥で消せ・可愛い娘は嫁にだすな」と言われたほど、所沢は水が乏しい町でした。
町場では共同の井戸を利用していました。
昭和9年4月、街中の井戸から一滴の水が出なくなる大旱魃があり、町役場は127メートルもの深い井戸があった
陸軍飛行学校に給水の応援をたのみ、町の衛生組合の撒水車で各配水所へ水をピストン輸送しようやく急場をのりきりました。
このように、所沢飛行学校の井戸水により町場の水が確保できたのです。


上水場
 所沢病院
これを期に昭和12年3月には宮本町に大きな上水タンク(給水塔)、配管工事が完成し、長年の町民の願いだった水道がいきわたり、「水」が自由に使うことが出来る様になりました。所沢の水は冬は暖かく、夏は冷たく、
「甘くて美味しい」と言われました。
昭和5年には所沢駅東方に伝染病予防と治療のため、一町六ケ村で病院組合を作り所沢病院として開院しました。
 
愛国所沢町民号
戦時体制が強化されていた昭和18年4月
所沢町、松井村、山口村、吾妻村、小手指村、富岡村の一町五村が合併、あらたに所沢町となりました。
戦時中の運動会は「米英撃滅秋季大運動会」といい、陸軍病院から白衣の勇士を招待したり、小学生達も陸軍病院へ慰問に出かけたりしていました。
又、高学年生は飛行場の草刈りにかりだされたりしていました。
戦況が激しくなり所沢の町も幾度も米軍機が飛来し飛行場への攻撃がありました。
豊岡飛行場を攻撃、返して所沢飛行場を襲ったのです。
 
飛行機新道にある火の見櫓すれすれに艦載機が低空飛行で飛来し、飛行場へ繰り返し機銃掃射を浴びせていました。
幸いにも町中への爆撃はありませんでしたが、昭和20年7月29日に有楽町曽根の坂の近くに爆弾が落ち、民家一戸全壊、数戸損害の被害がでています。
 
飛行場の周辺の人や飛行場で働いていた人が犠牲になったり、負傷し日吉町の新井病院に担架やリヤカーに乗せられ運び込まれる姿が見られました。 新所沢の八丁山には高射砲部隊がありB29が飛来すると攻撃していました。町中の道路に破片が突き刺さっていた事もありました。 
B29爆撃機が秋津に撃墜されたこともありました。
立川、八王子が爆撃され、昭和20年8月14日、熊谷が爆撃されました。
明日は所沢だろうという噂が流れましたが、8月15日の終戦を迎え、幸いにも所沢の町は爆撃を免れました。
 
 
昭和16年12月8日、太平洋戦争が勃発し所沢飛行場からも数々の飛行機が戦場へと飛び立って行きました。
所沢でも昭和17年に町民が10銭、20銭の寄付を集めて愛国所沢町民号と言う飛行機を造り軍に寄付しています。その時に東条英機も所沢に来ています。

曽根の坂には遠藤三郎中将の大きなお屋敷があり、白馬にまたがり出勤する姿が見られたそうです。
 
 




掩体壕
飛行場の飛行機を敵の攻撃から守るために、飛行場付近には掩体壕が造られました。
西新井町の熊野神社の森にも南方戦線で活躍した呑龍(100式重爆撃機)という
飛行機が隠されていたそうです。
町中でも防火訓練が度々行われていました。

料亭:婦多佳美
 
 
 
昭和20年8月15日、日本はポッダム宣言を受諾し、連合軍に降伏し、太平洋戦争が終結しました。
所沢の町も同年9月初旬から11月下旬にかけて、機関銃を付けたジープを先頭に6輪の大型トラックに乗った武装した米兵が、旧所沢陸軍整備学校跡に進駐してきました。


進駐した米軍は、米陸軍第5970部隊第13航空通信隊、米陸軍第97師団第1180技術工兵隊、771工兵隊及び第3013兵器隊でした。
 
今まで見たことのない大きな自動車が街中を走り、女性のドラバーや黒人の姿を初めて見て、驚いたり、治安や生活に不安と恐怖にかられながらも黙って見ていました。
  
ダイエー前の広小路(元検問所)には厳つい姿の兵隊がMPの白いヘルメットを被り立っていました。子供達は「ギブミー・チョコレート」と言い見たことも食べたこともないお菓子を貰っていたのでした。
 
元町交差点にあった料亭・婦多佳美の100畳敷きの広間は米軍の命令で一日にして将校のダンスホールとなり、ダンサーも一般募集し連日盛況だったそうです。
 
飛行場跡地から残された飛行物資らをリヤカーや自動車で運び出すやからも多くみられました。
 
陸軍憲兵隊所沢分遺隊 レストラン・グリーン
    
 
終戦まで西新井町交差点 近くにあった 陸軍憲兵隊所沢分遺隊に米軍進駐とともに米軍の求人に応じるための、渉外労務管理事務所がおかれ、多くの市民が雇用されました。
米兵は旧軍の兵舎等に宿舎を構えましたが、基地外にも部屋を借りるものも現れ、街には米軍相手の店が出来始め横文字の英語の看板らが多く見られる様になりました。
又、戦後の生活苦から米兵相手の街娼、通称・パンパン と呼ばれる女性が沢山出現し、街の風紀が乱れはじめてきました。 彼女らが住む部屋貸しの家も沢山ありました。
昭和27年の市の調査によると所沢に街娼(パンパン)が850人もいました。
米兵や街娼がいることにより利益を得、経済的にも町が繁栄し、また、米兵相手の女性達がいるから町の婦女子の安全が保たれている、という考え方や、風俗、治安、子供への影響上好ましくない等、様々な意見もありました。
いずれにしても所沢は「基地の町」となっていきました。
日本人従業員が所沢基地で一番多く就業していたのは昭和36年5月頃で4774人で町の商店街もこの頃までは活気がありました。
 
所沢市の誕生

昭和25年11月3日県内八番目として所沢に市制が施行され「所沢市」が誕生しました。
当時の人口:42,561人
戸数:8339戸
中心市街地を形成する戸数:5,650戸
総戸数の67%を占める。

米軍の進駐により所沢は一躍「基地の町」の様相を呈し、その購買力は地元商店街に大きな影響を及ぼしました。
戦後の高度経済成長期に入り所沢の町も商業都市へと活気がある町になっていきました。
 
昭和24年に旧町の商店街が「所沢銀座」と命名、28年には駅前〜金山町商店街まで、七夕祭が開催され各店の力作が町を飾り、人出も10万人を超えるほどの賑わいでした。



昭和29年(1954)には東町:現ダイエーの所に東映映画館が開館、所沢中央映画劇場、名画座と合わせて3館の映画館もあり近郷近在の人達も楽しんでいました。
現在は全ての映画館は姿を消し町の唯一の大衆娯楽施設はありません。

団地の誕生
 
昭和32年(1957)日本住宅公団により
新所沢団地の建設が始まり、34年には入居が始まりました。
30年代後半には宅地開発が一層盛んになり、こぶし団地らが
完成、

昭和42年5月には人口が10万人を超える都市になりました。
 
和51年(1976)4月には所沢の人口は20万人を超え、昭和46年の部分基地返還により公団、県営、市営の住宅の建設が相次ぎ人口も増加、基地跡地には、国、県、市の官公庁舎や公園(航空記念公園)病院(防衛医科大学校付属病院)市立図書館、市立体育館、市立総合グランドなどの公共施設が建設されました。
 

 






町の商店街では昭和43年2月「丸井所沢店」が
銀座商店街から駅前プロペ通りに開店


















        
11月「西友ストアー駅前店」

昭和56年11月に「ダイエー所沢店」が開店、
駅前再開発により

昭和61年4月に再開発ビル「ワルツ」が誕生しました。

旧町から市役所、警察署らが基地跡地に移転し、人通りも少なくなり、かっての銀座通りの賑わいは駅前方面へと変わっていきました。
 
62年1月市役所新庁舎業務開始、5月航空公園駅が開設されています。
 

昭和64年(1989)昭和天皇の崩御により元号も昭和から平成へと改まりました。

翌年には市の人口が30万人を超える自治体になりました。
 
町の中心市街地を形成してきた銀座商店街と周辺は他の急速な発展の中で時代の流れに対応出来ず、昭和59年に地元商店街から再開発の要請の声が上がりましたが、再開発事業はその後一時期見直しが求められ凍結、平成になり民間活力を導入した手法で再開発事業が再開されました。
 












平成7年3月最初の再開発ビル「コンセールタワー所沢」が完成、その後平成7年3月「コンセールタワー」平成9年3月「スカイライズタワー」平成10年「グレイシス・タワー」平成12年11月「フォーラスタワー」平成18年「ツインタワー・グレイシャー」と次々に高層ビルが連立する街並みに変貌しています。
 
 

明治時代へ 大正時代へ


 
 


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