
2007.10.18
2011.7.16
薬王寺境内時代 |
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昭和8年に浦町の薬王寺にあった町役場を町一番の豪商(天保年間からの織物問屋)向山小平次の別荘跡地(現在の旧市庁舎地)に
新築、バルコニーのついたモダンな町役場が誕生しました。 |
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昭和4年に宮本町の峰の坂も緩やかにする大工事が行なわれました。
それまでの峰の坂は昔の自然の地形に少し手を加えたもので、したがって、
勾配もきつく、馬方や手車引き、牛車など「荷」を運ぶ人達にとっては難所でした。
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新光寺の入口に流れる東川は昔はお寺の北側を迂回して流れていましたが 川幅も狭く、底も浅かったので大雨が降るとたちまち周辺の家々に浸水するので 昭和7年に「救済事業」の一環としてお寺の南側に真っ直ぐ流れる様に工事が行なわれました。 |
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明治の終わり頃、新光寺の裏に八王子の清水牧場の分店・内田牧場があり、100頭近い牛がおり、所沢市内に配達していたそうです。牧場は昭和19年に閉鎖されまた。
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金山町の通りが広げられたのも、この頃でした。金山町の通りも昔は狭く向かいの家の中が見えたそうです。 |
| 所沢小学校の南東地区(南原ミナミッパラ)には軍の将校さんが住む将校住宅が沢山建てられました。 洋風の応接間がついた当時としてはモダンな住宅でした。 |
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| 東所沢駅 武蔵野鉄道(現・西武池袋線)では所沢駅から「上り」秋津方面に400メートル位行った所にあった「松井村駅」 (昭和13年2月19日開設)を「所沢飛行場駅」と改名(昭和16年3月1日)後に「東所沢駅」と改名しました。 駅から鉄瓶横町(現在、新井町の能面美術館前)を通って飛行場へと通勤していました。 当時はこの辺を茨原(ばらあら)と呼んでいました。現在の旭町です。 |
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陸軍病院
昭和16年には陸軍病院→国立所沢病院(現在:医療センター)が開設されました。
ここに行く道路がファルマン交差点から新設されました。
急病、負傷した軍人を急いで搬送する為に旧道(引又道)では踏切が障害になるので
軍の命令により陸橋が作られたといわれています。
この道路に架かっている陸橋(七世橋)はかっては「七生橋」と言い楠木正成の「七生報国」「七たび人と生まれて、逆賊を滅ぼし、国に報いん」から付けられた名前です。この七世橋の道が出来たために旭町は南北に分断され、町の様子も大きく変わってしまいました。
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「所沢の火事は泥で消せ・可愛い娘は嫁にだすな」と言われたほど、所沢は水が乏しい町でした。
町場では共同の井戸を利用していました。 昭和9年4月、街中の井戸から一滴の水が出なくなる大旱魃があり、町役場は127メートルもの深い井戸があった
陸軍飛行学校に給水の応援をたのみ、町の衛生組合の撒水車で各配水所へ水をピストン輸送しようやく急場をのりきりました。 このように、所沢飛行学校の井戸水により町場の水が確保できたのです。
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上水場 |
所沢病院
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これを期に昭和12年3月には宮本町に大きな上水タンク(給水塔)、配管工事が完成し、長年の町民の願いだった水道がいきわたり、「水」が自由に使うことが出来る様になりました。所沢の水は冬は暖かく、夏は冷たく、
「甘くて美味しい」と言われました。 |
昭和5年には所沢駅東方に伝染病予防と治療のため、一町六ケ村で病院組合を作り所沢病院として開院しました。 | |
愛国所沢町民号 |
戦時体制が強化されていた昭和18年4月
所沢町、松井村、山口村、吾妻村、小手指村、富岡村の一町五村が合併、あらたに所沢町となりました。
戦時中の運動会は「米英撃滅秋季大運動会」といい、陸軍病院から白衣の勇士を招待したり、小学生達も陸軍病院へ慰問に出かけたりしていました。
又、高学年生は飛行場の草刈りにかりだされたりしていました。
戦況が激しくなり所沢の町も幾度も米軍機が飛来し飛行場への攻撃がありました。
豊岡飛行場を攻撃、返して所沢飛行場を襲ったのです。
幸いにも町中への爆撃はありませんでしたが、昭和20年7月29日に有楽町曽根の坂の近くに爆弾が落ち、民家一戸全壊、数戸損害の被害がでています。
飛行場の周辺の人や飛行場で働いていた人が犠牲になったり、負傷し日吉町の新井病院に担架やリヤカーに乗せられ運び込まれる姿が見られました。 新所沢の八丁山には高射砲部隊がありB29が飛来すると攻撃していました。町中の道路に破片が突き刺さっていた事もありました。
B29爆撃機が秋津に撃墜されたこともありました。
立川、八王子が爆撃され、昭和20年8月14日、熊谷が爆撃されました。
明日は所沢だろうという噂が流れましたが、8月15日の終戦を迎え、幸いにも所沢の町は爆撃を免れました。
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昭和16年12月8日、太平洋戦争が勃発し所沢飛行場からも数々の飛行機が戦場へと飛び立って行きました。
所沢でも昭和17年に町民が10銭、20銭の寄付を集めて愛国所沢町民号と言う飛行機を造り軍に寄付しています。その時に東条英機も所沢に来ています。
曽根の坂には遠藤三郎中将の大きなお屋敷があり、白馬にまたがり出勤する姿が見られたそうです。 |
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掩体壕 |
飛行場の飛行機を敵の攻撃から守るために、飛行場付近には掩体壕が造られました。
西新井町の熊野神社の森にも南方戦線で活躍した呑龍(100式重爆撃機)という
飛行機が隠されていたそうです。 町中でも防火訓練が度々行われていました。
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| 陸軍憲兵隊所沢分遺隊 | レストラン・グリーン |
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昭和24年に旧町の商店街が「所沢銀座」と命名、28年には駅前〜金山町商店街まで、七夕祭が開催され各店の力作が町を飾り、人出も10万人を超えるほどの賑わいでした。
![]() 昭和29年(1954)には東町:現ダイエーの所に東映映画館が開館、所沢中央映画劇場、名画座と合わせて3館の映画館もあり近郷近在の人達も楽しんでいました。 現在は全ての映画館は姿を消し町の唯一の大衆娯楽施設はありません。
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昭和32年(1957)日本住宅公団により
新所沢団地の建設が始まり、34年には入居が始まりました。 |
30年代後半には宅地開発が一層盛んになり、こぶし団地らが 完成、 |