2007.8.13 2011.7.16 

大正時代の所沢のまち





大正13年町図


大正時代の主な出来事

大 正 時 代
大正元年 1912年 陸軍大演習が川越、所沢、立川を「会戦地」として実施あれ、所沢町、松井村に要人が宿泊する。
大正天皇行幸 特別大演習御統監のため今上天皇当地に行幸。
尋常5年生以上飛行機新道に整列して奉迎。
大正2年 1913年 木村、徳田両中尉「ブレリオ式12型」機にて飛行中、町内柿ノ木台上空にて機体空中破壊のため墜落死
日本航空初の犠牲者。
若宮殿下奉迎。伏見宮、山階宮御兄弟、賀陽宮の四若宮殿下飛行場見学。
電灯点火 
中野気球隊が所沢飛行場内に移転する。
大正3年 1914年 竹田宮殿下奉迎。山田屋呉服店に宿泊(4月)
第一次世界大戦起こる。(7月)
第一次大戦に参加した航空隊の一部の凱旋あり、尋常科6年生以上所沢駅にて出迎え
夜間は町主催の提灯行列あり。
大正4年 1915年 武蔵野軽便鉄道、池袋〜飯能間開通(4月)
町内の区名が改称される。
上町区→本町区、上仲町区→元幸町、下仲町区→寿町、下町区→御幸町区、浦(裏)町→有楽町、
河原宿→宮本町、金山区→金山町区、日吉町区→日吉町区
皇太子殿下、高松宮殿下奉迎。皇太子殿下、高松宮殿下飛行場へ御台臨。
全児童旧金仏様跡(ダイエー前)に整列奉送迎。
大正5年 1916年 東久邇宮殿下奉迎。山田屋呉服店に宿泊(9月)
所沢実科高等女学校開校
大正6年 1917年 所沢銀行で、井戸に初めて動力ポンプを取り付け揚水する。
平岡徳次郎商店が中心となり湖月会が創設される。湖月縮誕生
大正7年 1918年 日吉町火災 7戸11棟焼失(2月)
第一次世界大戦終わる。終戦祝賀会を小学校南運動場で挙行。
所沢飛行場更に35万5千坪を拡張する。(12月)
大正8年 1919年 フォール大佐以下フランス飛行教官63名所沢飛行場着。
尋常科4年生以上拙速のフランス国歌で迎える。(1月)
シベリア出征航空隊凱旋し、児童職員所沢駅にて出迎え。
飛行場内に陸軍航空学校創設(大正13年に所沢陸軍飛行学校と改称)
大正 9年 1920年 第一回国勢調査、総人口7899万人 内地5596万人 所沢町人口8674人(10月)
閑院宮殿下奉迎。航空学校卒業式にお成りの殿下を尋常科5年生以上奉送迎。
大正10年 1921年 東伏見殿下奉迎。航空学校へお成りの殿下を尋常科5年生以上が御送迎。
伏見宮殿下奉迎。航空学校へお成りの殿下を職員、児童代表が御送迎。
大正11年 1922年 所沢織物同業組合事務所が完成(元町交差点) 各井戸組合で簡易水道敷設するもの多くなる。
賀陽宮殿下奉迎。航空学校へお成りの殿下を降雪の為高等科生および実科高女生の代表者もて奉送迎。
川越鉄道を西武鉄道株式会社と改称
大正12年 1923年 関東大震災   所沢実務学校を所沢実業学校と改称する。
梨本宮殿下奉迎。航空学校卒業式にお成りの殿下を尋常科5年生以上が御送迎。
大正13年 1924年 所沢航空学校が所沢陸軍飛行学校と改称される。(5月)
本橋自動車商会乗合自動車開業(所沢ー三ヶ島ー箱根ヶ崎ー青梅 続いて、所沢ー川越間も開通。
フランスの飛行機(ドワジー大尉)が所沢飛行場に着陸、尋常科3年生以上が飛行場にて歓迎する。
大正14年 1925年 第二回国勢調査 総人口8346万人 内地5974万人 所沢町人口 10452人
久邇宮殿下奉迎。陸軍飛行学校卒業式にお成り、殿下を尋常科5年生以上の正副級長奉送迎。(10月)
御幸町川端にあった活動常設館を買収し所沢演芸館(のち名邦座)を設立
武蔵野鉄道 飯能ー吾野間開通
大正15年 1926年 所沢飛行場に着陸したデンマーク機を児童代表飛行場にて歓迎する。(6月)
所沢飛行場に着陸したポーランド機を児童代表飛行場にて歓迎する。(9月)
大正天皇崩御


飛行場のまち:所沢








明治44年(1911年)4月1日、幅50メートル、長さ400メートルの滑走路と格納庫、気象観測所を備えた日本初の飛行場として陸軍所沢飛行場が開設されました。
所沢飛行場ができ、飛行機や飛行船が飛びはじめると、飛行場には連日多くの見物人が遠方からやってくる様になりました。
遠足の児童たち、飛行兵への面会のため家族が全国から連日訪れるようになり、『まち』は飛行機ブームに沸きました。



 
大正元年(1912)11月15日〜18日までの4日間にわたり関東地方で陸軍大演習が実施され、所沢・川越を中心部の「会戦地」とし、飛行機、飛行船が初めて作戦に参加しました。
所沢飛行場の大型飛行船「バルセヴァル機」やブレリオ機、ファルマン機らが参加しました。

陸軍特別大演習には大元帥である天皇も参加して指揮をとりました。
記念として大正天皇駐輦碑(ちゅうれんひ)が航空公園に建てられています。
この演習に際し、皇族をはじめ、要人、将校らの多くの軍人が町場の家に宿泊したりし、町の人々まで巻き込んで行われた大演習は、町にとっては一大行事でした。

その後、昭和天皇をはじめ各宮様ら皇族も度々飛行場に来場され、町の旧家にお泊まりになっています。
所沢の町は皇族とも縁深いつながりがある町でもあったのです。
 
大正2年には木村・徳田両中尉が松井村牛沼地区に墜落し両中尉は死亡、日本初の航空犠牲者になりました。
日本初の航空犠牲者に対して国民すべてが深くその死をを悲しみ、皮肉にも全国に飛行場の町「所沢」として知られる様になりました。
 
大正4年には町内の区名が改称されています。
御幸町、元幸町(現・元町)寿町等の町名もこの行幸から生まれています。
 



国際親善の町:所沢

大正8年1月から15ヶ月の間航空の先進国だったフランスからフォール大佐団長以下46名が来日し航空技術について指導され、日本航空技術の進歩発展に貢献されました。
フォール大佐一行の航空団が所沢駅に到着すると、花火を打ち上げ、フランス国歌「ラ・マルセイエーズ」を合唱し、フランスの国旗と日の丸の旗を振り、町民あげて歓迎しました。小学生はフランス語を、全部片仮名で書いたものを学校からもらい習ったそうです。
外国から飛行機で飛んでくる訪問者も多く、当時、国内では所沢が最初の飛行場でしたのでフランス、チェコやポーランド、ソ連などから、はるばる所沢にやってきました。
その時も、小学生達が国旗を持ち、花束贈呈など、町をあげて歓迎しました。 
このように国際親善の町でもありました。


 
大正8年4月には航空学校(13年に所沢陸軍飛行学校と改称)及び航空補給部が設置されました。
昭和9年2月1日には少年飛行兵制度による第一期生が航空技術を学ぶために全国各地から集まり、所沢飛行学校に入校しました。


これより終戦に至るまで8000人に及ぶ卒業生は陸軍航空の中核として活躍したのです。
飛行場の開設に伴い新たに赴任された将校が住居が決まるまで一時利用した旅館(秋田新道・松葉館、日吉町・杉田旅館ら)があり、軍人さん用の下宿屋が沢山ありました。洋風の応接間を増設したり、玄関には乳白色の笠に電球を取り付けたモダンな木造平屋建ての家が多く誕生したのもこの頃です。  


  御幸町の鳥居橋の近くには将校下士官のための最も大きな賄い付きの下宿屋がありました。
飛行場で働く軍人らが町に住むようになり人口も急増し、特に大正9年は8541人、
同14年には10234人と2割近く増加しています。

 
所沢の火事は「泥で消せ」と言われるほど水に不自由した頃で、「瓦やトタン屋根以外は危険だ」として、
大正7年頃、警察署より「屋上制限」なる条例が出され大正末頃には旧町では殆ど草屋根や檜皮葺きの家は無くなりました。
 


飛行場開設にともない駅から飛行場へ飛行機を運ぶ飛行機新道が開通

昭和5年には巨大な赤御影石に画期的な彫刻をし、
欄干は青銅、タイルで装飾、六角形の唐草模様をあしらった豪華な青銅の電灯を要所に取り付けたヨーロッパ風のモダンな「旭橋」が完成しました。




大正13年旧町上空・大通りに街路樹が残っています。

 
大正初期、 飛行場の拡大に伴い軍人の衛生保全のため、風俗取締の便宜上遊郭設置の嘆願書が出され、裏町(浦町:有楽町)に町で指定した歓楽街が誕生しました。
当時は遊郭(三好亭、大嶋楼、三春屋、内野屋、春乃屋、小澤亭、喜九生、等)やカフエーが何軒も立ち並ぶ花街でした。 
町中にも軍人さんや織物業者相手の飲食店やカフエーも誕生し賑わいました。







町の商店も飛行場との商いが始まり「陸軍御用達」の店が多く誕生しました。
   
        映画館の誕生

所沢には古くから芝居小屋がありました。
明治の初期には常設の寄席があり、明治6年6月(1873年)上町南裏(警察横丁・北の坂下)に小さな芝居小屋・「三好野亭」(のちに三好野座)が誕生しました。
この小屋は明治29年3月に大雪の為に倒壊してしまいました。
その後暫く町には常設の小屋が無く、明治36年12月に所沢界隈の最大の雛人形問屋・「雛忠」二上忠蔵氏により、下仲町(寿町)の崖下にあった鯉幟の染め場を整地し、芝居小屋「雛沢座」が誕生しました。
歌舞伎、浪花節、義太夫、常磐津、薩摩琵琶などの興行の他、政談演説会の場として利用されていました。

 
その後下町(御幸町)の豪商・綿糸問屋・井筒屋の秋田伊三郎氏が譲り受け、木挽
町にあった歌舞伎座をモデルにした舞台、花道、桝席、玄関等を改装し名称も「歌舞伎座」として大正元年に華々しくこけら落としをしました。
芝居小屋としてスタートした小屋も大正後期には娯楽の王様「活動写真」が出現しやがて活動館に変わって行き、無声映画時代からトーキ映画時代と移り、経営者も小澤太郎氏に移り、戦後も多くの流行歌手や演芸家の実演も映画と共に興行され多くの映画フアンで盛況でした。
昭和30年代に「所沢中央映画劇場」に改名、昭和57年に閉鎖されました。

所沢演芸館

坂稲荷前の横丁(横宿)を入り飛行機新道に通じる道に所沢演芸館がありました。
大正4年(1925年)から、所沢町字川端(御幸町)にあつた活動常設館を町の有志が買収し、大正14年に創立された所沢演芸館です。
その後名前を明邦座(昭和19年)所沢日活、名画座(昭和32年)と変え長い間市民に親しまれていましたが昭和45年に閉館されました。
昭和30年(1955)に現在のダイエーの所に所沢東映が開館しました。
東映時代劇全盛時代で中村錦之介、美空ひばり、等の映画が上映されていました。
昭和42年(1967)10月焼失し閉館されました。
 
 
 
電灯がともったのも大正2年8月からで、戸数1350戸に対して点火数は1060灯に達し、最初に下仲町(寿町)の洋品店に電灯がともったころ、夜毎に近郷近在から人々が提灯を持って見物に来たそうです。
大正14年には旧町の両側各戸前に街灯が設置され「暗黒の如き全町」が「急に光りに恵まれた如くに美化され」と報じられています。




大正14年に浦町の待合「春の屋」の経営者・大西元次郎氏が県下最初の水泳場を曽根の坂(御幸町)に造りました。縦25メートル、深さも3尺、5尺、7尺(1尺:約30CM)の三段階あり、飛び込み台もある本格的なプールでした。
昭和13年まで営業していました。
 
 
 
  新しい織物の時代へ


大正4年武蔵野鉄道が池袋ー飯能間で開通しました。

大正時代の所沢停車場

大正初期の所沢駅上空


そんな中、武蔵野鉄道が池袋ー飯能間が開通し、駅の周辺にも織物関連の店が増えていきました。
ガス糸用いた新銘仙(ガス銘仙)そして、夏物の「湖月」ら、新しい織物の台頭により、縞屋の「平岡徳次郎商店」「井関」(現いせき衣料店)福井(福井薬局)糸商の「米田」(現マクドナルド)整理工場の「張石」らが日吉町、学校新道周辺に昭和初期にかけて織物関連の業者が次々と誕生していきました。


     平岡徳次郎商店
 
大正6年に平岡徳次郎商店が有力な機業家を結集した技術集団を基礎に湖月会を結成、流行をいち早く取り入れたデザインの研究や新製品の開発に努め、「湖月」「湖月明石」らの新銘柄の製品を生みだし、戦前期の所沢織物業界をリードしていました。            
大正8年3月に日吉町に店蔵、棲蔵、倉庫を新築しました。三年かかりの工事で4月には盛大な新築祝いが行われ,当日は店裏に幕を張り、大神楽の祝いや酒が振る舞われ、華やかな一日だったそうです。
所沢の町でも一番大きな店蔵でした。
 
戦後、織物業界の衰退から閉店してしまい、現在は店蔵は取壊され、その後「高島屋ストア」「シズオカヤ」となり、跡地は現在はパチンコ店になっています。
 
 
 
    所沢織物同業組合事務所
大正11年に当時の一等地、元「角三上」という宿屋の跡地・181坪(現元町交差点)に『所沢織物同業組合』の事務所を建設しました。
1月3日に起工式が行なわれ、同年11月15日に完成という超スピード工事でした。
総額60,000円、正面玄関から階段には赤い絨毯が敷かれ、二階は100余畳の大会議室、天井にはシャンデリア、屋上には避雷針が取り付けられ、外装はタイル張りの豪華なもので、当時は「白レンガの西洋館」「所沢一の美観」などと評されていました。昭和に入り織物の衰退と共に織物事務所の役割は終わり、昭和46年4月に同事務所は入間市仏子に移転しました。
その後取り壊され「織物の町・所沢」の象徴的建物は姿を消しました。



 所沢警察署
 
警察署明治9年に大和田警察署分署として
字坂上(現ファルマン交差点)に設置され、
その後所沢警察署となり明治21年に元町に移転、
大正4年にモダンな建物生まれ変わりました。

 明治時代へ 昭和時代へ






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