大橋節夫と ハニーアイランダース ![]() |
通称「オッパチ」 長身、美男子、慶応ボーイが売りで戦前の南海音楽時代からハワイアンで鳴らし 戦後、笈田敏夫等と「スター・ダスターズ・ハワイアン」、26年「ハニーアイランダース」を結成 ハワイアンよりもジャズ等を甘いスチール・ギターにのせ、又自ら作曲、日本製ハワイアンを広めました。 ハワイアン界の第一人者、そして日本の軽音楽のパイオニアとして, 幼馴染のジャズ歌手の笈田敏夫と共に活躍しています。 |
バッキ白片と アロハ・ハワイアンズ ![]() |
ハワイ・ホノルル生まれの日系二世。ハワイ大学医学部を卒業 |
横江美代子と フラワー・シスターズ |
戦前、南 雅子姉妹と昭和15年頃「アロハ・ワヒネス」を結成 戦時中は「南進女性」と改称し浅草・花月劇場等に出演していました。 終戦直後、厚木飛行場に着陸した空挺部隊に慰問演奏をした最初のバンドです。 左から 吉村迪子 安藤元代 辻加代子 久留島みどり 横江美代子 山本治子 遅塚レイ子 |
ボス宮崎と コニー・アイランダース |
宮崎英夫 慶応大学卒 昭和9年 慶応大学在籍中に「ノヴェルティ・ハワイアンズ」を結成 開戦時は「新緑楽団」で笈田敏夫等と演奏。 昭和23年〜24年頃14名のハワイアン・オーケストラを結成 昭和33年新メンバーで結成 |
山口銀次と マヒナ・スターズ |
バッキー白片とアロハ・ハワイアンズが分裂後 昭和24年和田 弘等とマヒナスターズを結成 昭和39年「ルアナ・タヒチアンズ」を結成 後に弟軍一等と「ルアナ・ハワイアンズ」を結成 |
![]() 山口軍一&ルアナハワイアンズ |
スチール ギター 1931年 東京都出身 小学生の頃より兄達(正保・銀次)が、ハワイアン音楽に携わっていたので、 ウクレレ等に興味を持ち弾き出す。 [1945年] 学徒動員(8月15日まで)。 [1946年] カハナ・アイランダース結成(青山学院時代)。 [1949年] NHK オーディションに合格。 進駐軍クラブ(大田区雑色)『コーヌ・コピア』:専属出演。 [1951年] ルアナ・ハワイアンズ結成。 進駐軍クラブ(歌舞伎座別館4F)『エデン』:専属出演。 [1954年] 銀座『金馬車』、『キャンドル』:専属出演。 [1955年] 青山学院大学卒業。 [1960年] 日本ポリドールと専属契約。 [1964年] 山口 軍一とルアナ・ハワイアンズに改称。 日本楽友会:理事 日本ハワイアン音楽協会(JHMA):理事 日本ウクレレ協会(NUA):名誉会員 スパリゾートハワイアンズ:顧問(芸能部門) |
和田 弘とマヒナ・スターズ![]() |
山口銀次をリーダーとしてスタートしたマヒナ・スターズは 昭和31年に和田 弘を中心にボーカルの三島敏夫を迎えて再結成され、ビクターの専属となり ムード歌謡に多くのヒット曲を出しました。 |
伊藤素通と リリオハワイアンズ |
昭和25年に結成され、このバンドはコーラス主体で高く評価されました。 後に「リリオ・リズム・エアーズとしてテレビの「光子の窓」等バラエティー番組等でも活躍していました。 |
ダニー飯田と パラダイス・ハーモニー |
昭和30年結成、進駐軍関係、キャバレーで仕事をしていました。 その後「パラダイス・キング」と改称、昭和33年2月、第一回日劇ウエスタン・カーニバルに出演 次の年からロックン・ロール風の演奏をし、人気を得ました。 山口軍一とルアナ・ハワイアンズ」にいた水原 弘、坂本 九、九重ユミコ等 多くのポップス歌手を育てています。 |
白石信とナレオハワイアンズ | |
大塚竜夫とパームセレナーダズ | 昭和26年に結成 |
ディック・ミネ |
明治41年10月5日生まれ〜平成3年6月10日没。徳島市出身。本名、三根徳一。 立教大学商学部卒。学生時代は相撲部で活躍しながら、ジャズバンド「ハッピー・ナイン」を作る。 卒業後逓信省に入り、勤めながらスタジオ奏者を続ける。 昭和9年「ダイナ」でデビュー、「黒い瞳」「人生の並木路」「夜霧のブルース」「旅姿三人男」などがヒット。 レコードにした曲は1000曲を超える。 日本ジャズ草分けの一人。 54年から平成元年まで日本歌手協会長を務めた。 プレイボーイぶりでも知られた。 勲四等旭日小綬章受賞。 |
灰田勝彦 |
昭和4年「モアナ・グリークラブ」を結成 日本で最初のハワイアンバンド 父の遺骨を納骨しにハワイから来日した折り荷物を盗まれる災難にあい、それらを転機に日本に定住したそうです。 甘い歌声とハンサム、映画界でも活躍していました。「銀座カンカン娘」 |
エセル中田![]() |
戦後のハワイアンの女性歌手の代表的存在 昭和30年代前半では必ず人気投票のベスト圏内にランクしていました。 |
日野てる子 |
昭和37年8月全日本ハワイアンコンテストにて優勝、翌年上京し、パッキー白片、山口銀次先生に師事し、ハワイアン歌手としての一歩を踏み出す。同時にNHK新人オーディションに合格。てる子のハワイアンを印象づけ、歌謡界に灼熱の歌唱で、地位を確率。翌39年5月、新人として異例のシングル、アルバム同時デビューをなし、歌謡界の話題を集め、各方面より絶大な支持を得る。 昭和40年1月、鈴木道明作詞作曲による「夏の日の思い出」「ワンレイニー・ナイト・イン・トーキョー」(裏面)を発表し注目を浴びる。この作品で、歌手日野てる子の個性と素材が開花する。同時に歌謡界に大反響を呼び売り上げ枚数100万枚を超える大ヒット。歌謡史に残る名曲として、日野てる子の代表曲のひとつとなっている。 同40年12月紅白歌合戦、都はるみ等とともに初出場。以後42年まで3年連続出場を果たし、歌謡界に於ける歌手日野てる子の地位を確立する。 昭和41年7月より前進。タヒチ、サモア、ハワイに渡り、本場のタヒチアン・ハワイアンの歌と踊りを習得。日本における日野てる子のハワイアンの世界を広げ、プリンセスとしてはばたく。 |
![]() 「懐かしのS盤アワー」 1950年〜1955年放送されたS盤アワーで 紹介されたポップスを年代別紹介しています。 |
![]() 1955年(昭和30年)には洋画・ポップスの全盛時代となり ラジオ番組にもファン投票による「ヒット・チャート」番組 「ユア・ヒット・パレード」の放送が始まりました。 ヒット曲の数々を年代別に紹介しています。 |
![]() Hiroshi’s Jazz Club |
japan/jazz/pops/index 戦後の日本のジャズ・コン全盛期に活躍したミュージシャンを ジャンル別に紹介しています。 ジャズ喫茶・日劇ウエスタンカーニバル等で出会った人達です |
![]() 映画音楽、ラテン、シャンソン、 ジャズ、カントリー&ウエスタン等の ポピュラー・ミュージックをお楽しみください |
![]() 明治時代から大正・昭和・平成の歌謡曲を 年代別にご紹介します。 |
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