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野村 輝之
私は、旭川市で生まれ、札幌で育った。全く海とは関係のないところだが、中学校の修学旅行で釧路へ行き、山の上にある公園から海を見ていると、ガイドさんが、「この海は太平洋です。この海の向こうにはアメリカ大陸があります。」と、言った。地図を見ると、確かにアメリカはある。しかし、実際に海を渡って行くと、アメリカに行くことができるのだろうか。それならば、ぜひ海の向こうの国々を見たい、と思ったのが、私の世界一周をしたいと思った動機だ。
どうしたら世界を見ることができるだろうか、と色々考えたところ、外国航路の船員になれば仕事をしながら世界を回ることができると思い、高校受験の時に商船高校を選んだ。しかし、両親は、板子一枚下は地獄と言われる危険な仕事で、長男である私がもし死んでもしたらどうするんだ、ということになり、とにかく危ない仕事は止めるよう説得されて、やむなく普通の学校へ行き、就職した。
ある時、職場の仲間と小樽へ魚釣りに行った。そこで見たのがヨットだった。白い帆を張り、風を受けて青い海を走っている。風さえあればどこまでも走ってくれる、素晴らしい乗り物だ。この時、私はこのヨットで世界一周を図ろうと心に決めた。
それから数年後、やっと小さいながらも外洋を走ることができるヨットを手にいれることができ、この船で五年間日本近海を走り、帆走技術など操船に必要な免許など全てを取得した。
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大航海へ出る自信もついたが、この小さなヨットでは、太平洋を渡ることもできない。それで、世界を回ることのできる堅牢な船をコンクリートで自作した。これがシーガル号だった。この船で一九八〇年に仲間四人で太平洋を横断し、念願のアメリカへ着いて、その後、南太平洋を回る太平洋一周の航海に成功した。この時の感動は、今も我々四人のクルーと、これを支援してくれた多くの仲間たちの心に深く残っている。
それから四年後の一九八四年、家族四人と共に世界一周の航海へ出た。再び太平洋を横断し、アメリカ西海岸を南下し、カリブ海を経て、南米大陸南端の最大の難所であるホーン岬を家族と共に通過することができた。これは、ヨット乗りの私にとって何よりの快挙だった。
しかし、大西洋へ出て、事故が続き、アルゼンチンで沈没船に衝突しヨットが沈没、それを引き上げ修理し、再出発したが、今度は、ブラジル沿岸で座礁し、ついに航行不能となり地球を半周で航海を断念することになってしまった。世界一周の夢は達成することができず、四年と三カ月の航海で終わった。
私の目標は世界一周だ。再び計画を練り、貿易風を受けて走る西回りのコースで地球を回り、出来るだけ多くの人たちを寄港地ごとに乗船させ、二十世紀最後の地球を皆で見て回ろうと、一九九七年に北海道を出て、三年間で世界一周をし、二〇〇〇年七月に無事帰ってくることができた。七万五千キロを帆走し、七十三人のクルーが乗船し成功に終わった。
私が、世界を見て回りたいと思った時から、実に四十四年目にしてやっと私の目標が達成できた。この間、多くの難題があったが、いつの日か必ずやり遂げるとずっと思い続けて努力をしてきて、やっとそれが達成できた今、自分のこれまでの人生でこの上ない充実感をおぼえている。これからも、次の目標に向けて、更に努力を続け、多くの仲間と共に素晴らしい人生作りをしようと思っている。
成人を迎えられる皆様、自分の目標を定め、それに向かって一生懸命努力をし、初志貫徹することを望んでおります。
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