シーガル号浜益港来港記念対談(2006年7月22日)
「42年ぶり浜益-小樽間航路の再現~海の古道、過去・現在・未来を考える~」

記念対談の様子

▲記念対談の様子(写真左から、蛯名氏、野村氏、吉弘氏、田岡市長)。

 

●野村輝之氏 シーガル号キャプテン

 

●蛯名幸四郎氏 浜益海運(株)相談役(元浜益漁協定期航路事業主事)

 

●田岡克介 石狩市長

 

○聞き手 吉弘文人 浜益小劇場舞台監督・石狩市立石狩小学校教諭

  

○吉弘

 42年ぶりの小樽-浜益航路の再現をご提案した、背景・狙い・思いとは。

 

●市長

 合併以前から、浜益の自然景観、サクランボなどの果樹に関心があり、関係者などに往来を勧めてきた。
 合併が現実となり、一つの市として浜益を検証したとき、かつて浜益は海を隔てた1つの生活・文化圏であり、むしろ石狩市より関係が深いということが分かった。
 さらに、シーガル号は小樽が母港であり、せっかく浜益に行くのなら昔の「海の道」をたどってみようやというのを重ねて。

 

○吉弘

 野村キャプテンへ。実際、小樽-浜益間の「海の道」の様子をお聞かせください。

 

●野村

 市長から話しを受け、とにかく行ってみようということになった。小樽-浜益間の航路については、資料を送ってもらい当時の「浜益丸」が生活物資を運んでいたことを知り、そうしたことを感じながら走ってきた。石狩・厚田のまちが見えると、昔はニシンが獲れて栄えたのだろうななどと思いを巡らせた。
 今日は4艇で来たのですが、小樽-浜益間の距離が約30マイルあり、ヨットとしてはちょうど良い距離です。朝に出て、昼ころ着いて、昼ごはんを食べて、日帰りも可能ですし、ゆっくりと1泊してもいいし。また景観もよく、平野が見え、丘も見える。この「海の道」は今後も活用したらよいのではないかと思います。
 今回は素晴らしい企画をしていただいたと思います。

 

○吉弘

 野村さんのお話しにもでました「浜益丸」について、実際浜益丸が活躍していたころ、浜益海運でご勤務されていた蛯名さんに「浜益丸」のこと、当時のことをお話ししていただきたいと思いますが。

 

●蛯名

 「浜益丸」の話をすることは、浜益の歴史を話さないといけないと思います。
 もともと浜益は、滝川にも札幌にも増毛にも通ずる陸路がなく、「陸の孤島」と呼ばれていました。しかし、ニシンが大漁でしたから、経済的な理由から海路による交流を選択せざるを得ず、小樽との交流が深まることは自然だったのです。
 昭和20年初期までは14~15トンの船で約6時間かけて小樽まで行っていました。ところが、昭和23年に客を乗せた船が浜益港付近で波により転覆し、17名の死者を出しました。その事故後、当時の海運局が旅客船の基準を厳しくしたことから、当時まだニシンにより資金力もあった漁協が60トンの船を購入し、基準に適合する客船に改造したのです。
 ところが昭和29年からニシンが全く獲れなくなり、漁協の経営も悪化したことから航路事業も維持できなくなったのですが、当時、国の制度で株式会社に対する助成制度があり、また国・北海道が旅客船の航路の整備を進めていたことから、漁協を中心とした(漁協組合員を株主とした)株式会社を昭和34年に設立しました。78トン、320馬力、11ノットと当時では高性能の船により、小樽まで2時間40分で行くことができ、当時の住民にも「やっといい船に乗れる」と大変喜ばれました。
 ただ当時船に乗ったお客さんは大変でした。大きい船といっても揺れますから、船酔いをして嘔吐しますので、袋が用意されていました。また、夏季は毎日運行しますが、冬季は1週間に1日だけですから、どうしても乗らなければならない人は死に物狂いで船に乗りましたね。
 それでも昭和39年には滝川までの道路が冬季に除雪を行い通年で通れるようになりまして、お客さんも陸路を利用して船に乗る人がいなくなってしまったことから、旅客航路も昭和40年で廃止になりました。しかし依然として経済圏は小樽でしたから、20トンの船に変えて物資専用で往来は続きましたが、これも昭和45年で廃止となりました。

 

○吉弘

 今でも当時のまま「浜益海運株式会社」の名が残っているのはやはり航路への思い入れがあるからではないですか。

 

●蛯名

 ええ、浜益海運株式会社の設立から携わってきましたから、交通が陸路に切り替わりましたけど、私の一生居るうちは名乗っていきたいと思います。

 

○吉弘

 今回、42年ぶりの小樽-浜益間航路の再現となったわけですが、実は先ほどお話しにありました昭和23年に座礁した「石狩丸」というのは、動力と風の力、いわゆる帆の両方が付いていた「汽帆船(きはんせん)」といわれる船でしたが、ヨットも結局汽帆船ですよね。ですから汽帆船での航路再現ということになると59年ぶりになります。ですからまさしく今日は動力船より昔にあった海の航路を野村さんは体験したわけですが、「海の道」の原型から見える浜益はどうでしたか。例えば黄金山などはどのように見えるのでしょうか。

 

●野村

 浜益に来るには黄金山を目印にしますよ。黄金山が見えたら「ああ、浜益に来たな」と思えます。それ位目標となる山ですね。昔はGPSなんかないから、コンパスとそして黄金山のような山並みを目印にしながら航海したのでしょう。特に冬は季節風だから汽帆船は相当大変だったろうと思います。

 

○吉弘

 かつての小樽-浜益間航路という、いわゆる「海の古道」の歴史や文化的な意味を考えたいと思いますが、同じ古道として、「濃昼山道」が最近見直され、復元の動きも見られますが、こうした古道の復元の動きから何が見えてくるのかを市長にお聞きします。

 

●市長

 「海の古道」にしても、「陸の古道」にしても、そこには人間の英知や生きるという生命そのもの、きちんとした合理性でできていると思います。つまり、歩くのに負担のかからないように、また船で渡るのにもより危険が無いようにできている。このことは人間本来持っている生きる知識なのだと思います。
 三内丸山遺跡(※)は、海に面して港があるという海の原点であると考えられますが、縄文時代は大変往来が盛んだったことが分かっているのですね。日本海で全部つながっているので船によって行き来していました。ですから縄文時代の人々は、季節によって海がどう変わるか、風の動き、潮の動きをきちんと分かっていた。危険をいかに回避するか知識があったと考えます。しかし現代はその危機回避能力が退化しているのではないかと、あまりに機械化されていて人間本来持っている生きる知識が弱くなっているのでないかと、ここは昔の古道をたどってもう一度、人間の生きる知識や能力とは何かを見直す必要があるのではないかと、そういうことからこの古道というのは現代にとって重要な意味があると考えます。
※三内丸山遺跡:青森県青森市にある日本最大級の縄文時代の集落跡

 

○吉弘

 それぞれのお立場から海に関するお話しを聞いていますと、何か「ロマン」というものを感じますが、蛯名さんはお仕事として航路に携わってきて、お客さんの苦労など大変な思いをされてきたと思いますが、大変な思いもありながら、海への愛着もあるのではないかと思いますがいかがですか。

 

●蛯名

 私はもともと漁師の息子で、父親のアワビ漁など子どものときからよく手伝っておりましたので、海が好きで好きでたまらなかったですね。学校も水産学校でしたし、就職も漁協でしたしね。航路が廃止になってからも、昭和50年から国道231号の開設工事で、雄冬と千代志別の間に基地がありまして、そこまで工事資材を運ぶのに「はしけ」を引っ張って船で行ったものです。工事は翌年まででしたがその後も工事関係で海底調査をしたり、結局海とは離れられませんね。

 

○吉弘

 陸の道をつくるために必要な資材を、海の道を使って運んだというのは感慨深いものがありますね。
 それでは市長にお聞きしますが、石狩市は海と大変関わりが深いまちであり、今後のまちづくりにおいても、海をどう生かすかという視点が重要かと思いますが、いかがお考えですか。

 

●市長

 合併して80キロメートルの海岸線となり、石狩湾の北半分が石狩市になったわけですが、この長い海岸線を持った石狩市を表現する良いネーミングはないかと考えています。
 石狩市は石狩湾新港でつくる都市的な開発と厚田・浜益区が持つ山や川の自然を併せ持っており、こうしたまちの全体を考え、また20世紀が文明の利をむさぼってきた時代への反省から、21世紀はもう一回人間回帰をする時代ではないかと、その意味において、豊かな川や山を持っているということは必ず評価をいただけるまちであると考えています。
 それで、私としては「文化の弧」としたいと考えています。「弧」はイコールこの80キロメートルの緩やかな海岸線のカーブではないかと。そして、この中に21世紀を生きるための、ある種都市的文化を享受したいと、心豊かな人間本来の穏やかな生活を与えてくれるのがこの石狩市であると思います。恐らくは21世紀をリードできる素晴らしい資源を持ったまちだと考えます。
 あとはその資源を生かすのに市民の皆さんがいかに努力をするかだと思います。

 

○吉弘

 それでは最後に野村さんに同じように海に対する思いをお話しいただきたいと思います。

 

●野村

 小樽-浜益間航路は歴史的には終わってしまいましたが、合併して新しい石狩市になったことで、残すことを考えてはどうか。残すべきだと考えます。これから、ますます海で楽しむ時代がきます。沿岸でも内陸でも海が好きな方は海にやってきます。こうした動きの中で、沿岸の活性化を考える上でもこの「海の道」を通じてできることがあるのではないかと。
 3年前に私は「海の駅」を作ろうと道内を一周し、先々で提案してきました。お金が掛かるといった問題もありますが、「道の駅」というのがあるのだから、それと「海の駅」をつなげて考えてみてもいいのではないかと。陸の道から海に来る方々と、そして海の道を通ってくる我々と、そして沿岸の方々とが交流できるようになれば、地域の活性化につながると考えますし、こうした考え方や取り組みを次の世代につなげていきたいですね。

 

○吉弘

 皆さんの話しをお聞きして、それぞれの海への思い、愛着が分かりました。私は今石狩小学校に通勤していますが、直線距離で愛冠岬がすぐそばにあるように見えますが、実際は市長の言う「文化の弧」のカーブを行き来していますので、「海の駅」があったらいいなと思います。
 この対談を通じて、これからも海について語り合って、いろんな角度から海のことを知っていって、そして昔の人の知恵を学びつつ海の一つ一つを見つめ直すことが、これからの石狩のまちづくりを考える一つの形なのかなと感じています。
 同時に海へのロマンを持ちながら、「海の駅」構想の実現についても大いに語ることができたらよいと考えます。本日は大変ありがとうございました。

                        【2006年(平成18年)723日 北海道新聞社 朝刊から転載】

 

小樽~浜益 海路」の一考察もご覧下さい。